平和紙業株式会社
兵どもが(つわものどもが)・・・。
2023年5月に、特種東海製紙㈱は、2024年3月末に、同社岐阜工場での生産を停止し、同工場で手掛けていた製品は、三島工場(静岡県長泉町)に集約すると発表しました。
特種東海製㈱岐阜工場は、岐阜市のJR岐阜駅から東へ約2km。歩けば30分ほど、自動車なら10分ほどのところに位置しています(地図1、写真1)。
(地図1)JR岐阜駅から東へ約2キロの場所に、特種東海製紙㈱岐阜工場が位置し、市街地にある工場です。歩けば30分、自動車なら10分ほどの場所になります。(Googleマップより)
(写真1)工場の俯瞰です。敷地内には、工場建屋、事務棟、倉庫などが立ち並んでいます。
工場の周りには、田んぼが広がっており、のどかな雰囲気です。(Googleマップより)
工場の北2kmの場所には、斎藤道三、織田信長が城主となった岐阜城が、金華山の山頂にそびえ、そのふもとを流れる長良川と、木曽川に挟まれた豊富な地下水源に恵まれた地域です。
岐阜工場の前身は、JR岐阜駅の北側に細長く位置する真砂町で、「真砂製紙㈱」としてスタートしました(残念ながら、真砂町のどこで創業したのか、明確な場所は分かりません)(地図2)。その後1955年に現在地へ移転。1964年には特種製紙㈱と合併し、同社岐阜工場として研究開発部門を設け、ファンシーペーパーの開発工場として数多くの商品を開発、製造してきました。
(地図2)真砂町は、JR岐阜駅の北側に細長く伸びています。
このエリアのどこかで、「真砂製紙」が創業したものと思われますが、その場所の特定はできていません。(Googleマップより)
ちょうど真砂製紙と特種製紙が合併したころ、1964年に前々回の東京オリンピックが開催されることとなり、オリンピックのポスター向けの用紙を開発します。亀倉雄策氏がデザインした、あの有名な日の丸の下に五輪マークが燦然と輝くポスターです。開発当時は、「オペークオリンピア」と呼ばれていましたが、その後、真砂製紙の名前を冠して「マサゴオペーク」と名前を変え、1917年にその使命を終えるまで、多くの方に使われ続けてきました。
岐阜工場は、敷地24,000㎡の中に、倉庫、事務棟などを備え、工場建屋には、2台の抄紙機を備えていました。2台の抄紙機は、それぞれ、円網抄紙機の5号抄紙機と、長網抄紙機の6号抄紙機が、一つの建屋の中に並列で配置され、円網抄紙機では厚い紙を、長網抄紙機では薄い紙をそれぞれ得意とし、コンパクトな工場ではありながら、薄い紙から厚い紙まで生産できる、とても便利な工場でもありました。また、並列で抄紙機が並んでいることから、それぞれの抄紙機の違いを、見比べることも可能で、工場見学にはもってこいの工場でもありました。
5号抄紙機は、1962年、6号抄紙機は1966年に設置。新製品の開発に伴い、風合いや手触り、エンボスや紙の表情など、求められる紙の特徴を再現するための数々の改造を行い、特徴あるファンシーペーパーを製造するための工場として機能してきました。
また、この工場では、皆様よくご存じの「TANT」の一部の色を生産したり、レザックシリーズなども手掛けていました。また、弊社取り扱いの商品なども、数多く手がけており、工場閉鎖の報は私たちにとって、大きな衝撃でもありました。
同時にこの工場で働いてきた方々も、岐阜から静岡へと配置転換される方や、職を辞して新たな就職先を探す方など、60名ほどの従業員の方々にとっても、大きな決断を迫られることとなりました。
夜勤の方々向けに出前を配達してくれていた、近隣の飲食店の方々にとっても、閉鎖は痛手だったことでしょう。
私にとっても、この岐阜工場は、打ち合わせや、抄造立ち合いなど、足しげく訪れた工場でもあり、閉鎖と聞いて、一抹の寂しさを感じました。
抄造立ち合いなどは、岐阜駅前のホテルから、工場までを真夜中に、星空を見上げながら歩いて移動したり、抄紙機の横で出来上がる紙の紙質などをチェックしたりと、当時は辛い思いもしましたが、工場自体が無くなると聞くと、それもいい思い出です。
工場の閉鎖が発表される前の2022年12月に、岐阜工場で新しく作った紙「真砂紙」が、この工場で生産した最後の新商品となりました。真砂製紙のDNAを受け継ぐ岐阜工場で新たに作る紙に、真砂製紙へのオマージュを込めて名付けた紙です。
岐阜工場で生産していた商品は、順次三島工場へ転抄されることとなりました。転抄の難しさは、これまで何度も書かせていただいた通り、一筋縄ではいかないものです。
今回も、従来商品と大きくかけ離れないスペックでの生産を目指して、メーカーともども苦労しながら、作業を進めています。
さて、現在の工場跡地はどうなっているのかというと、ほぼ更地に近い状態になっています(2025年5月現在)。(写真2、3、4、5)
(写真2)かつての工場正面です。正面に見えるのが、倉庫棟の建物です。(Googleマップより)
(写真3)現在の工場正面の状況です。既に建屋は解体され、重機が作業を続けています。
(写真4)工場建屋があったころは、意外とコンパクトな工場だと思っていました。(Googleマップより)
(写真5)いざ解体が進むと、かなり広い敷地だったことがわかります。2025年7月までには、敷地はすべて更地になる予定とのことです。
建屋があった時には、「意外とコンパクトな工場」という印象でしたが、更地になった跡地を見ると、「意外と広かった」と感じます。
この跡地が、商業施設になるのか、住宅地になるのか、今後どうなるのかは、まだ発表されていませんが、どんな形に姿を変えようとも、私の中ではいつまでも「岐阜工場」であり続けるだろうと思っています。