白石奈都子
お手紙
最後に手紙を書いたのはいつだったろうか?
そう思う方も少なくないと思う。
以前、硬筆で書道を教える仕事に携わった際、お客様の中で「手紙も書きたいけど、きれいな字が書けないから恥ずかしい」と仰る方がいた。この方だけでなく、日本人の美意識なのか「きれいに書きたい」「自分の文字が恥ずかしい」という声はよく聞く。
各言う私も、美しく日本語を書きたい気持ちもあるからこそ書道を続けてきたので、その人心は共感できる。先様に送り、読んでいただくものだから、きれいな文字で書きたいという心肝は、寧ろ日本人の美学とも言えるかもしれない。
筆を日常で使っていた時代、江戸以前の武将や貴人、文人、商人など所謂「書家」ではない人々も、ただの書簡や政治的などの事務書類でも、しなやかな草書、力強い楷書や行書、優美な仮名、これらで実に美しく、魅力的な文字を書いていた。
だが、私がこれまで感じていた書簡のイメージを覆す手紙があった。細川ガラシャの手紙である。
書の造詣が深い方や戦国時代について博識強記な方は精通しているかと思うが、そうでない方も名前だけは知っている人も多いと思う。私もそれまでは教科書の中の人という記憶しか持ち合わせていなかった。
明智光秀の娘で本名は明智珠(玉)。細川忠興の正室となり、父の謀反「本能寺の変」が元で家庭不和や幽閉、隔離された生活を送り、その生活の中でキリスト教に惹かれ、帰依したと言われる。
その紆余曲折の中で綴ったガラシャの手紙がある。昔の貴人女性の手紙といえば、流麗で女性らしい柔らかな仮名文字で書かれていることが多いが、彼女の手紙は私が勝手に描いていた「深窓のガラシャ姫様」の像を覆す書だった。
現代の「お手紙の書き方」というと、書き出しは一文字空けて、行頭と行末を揃えて、、、などというお作法を小学校で習ったかと思う。ガラシャの書いた手紙は、『散らし書き』という書き方で、法則性はあるがその名の通り散らして書く書き方。平安時代の和歌というと、想像しやすいかと思う。行頭や行末、行間を揃えず、文字のサイズも抑揚をつけ、墨の濃淡、掠れもアリという書き方だ。
ガラシャのお手紙は、夫・忠興や小侍従などに宛てたもので、内容はよくある息災や家庭の報告だが、その時々の彼女の感情や奔放で芯のある性格を表しているような、高潔な中に強さのある、男性のような筆跡であった。
無論、人物として魅力があり、達筆が故に魅力的な書として注目されていることもあるが、「書は人なり」とも言われるように、正に人となりが感じられ、惹きつけられる書簡の一つだと思う。
私も、ちょっとガラシャに会ってみたくなった。
書道に関する云々は差し置いて、ガラシャのお手紙を見るとこんな感じに書いてもいいんだ、とちょっと書きたくなる、そんな手紙だった。
現代人では計り知れない手紙を書いて出す苦労や必切実な事情もあったはずだが、殿上人に書く以外は、それなりに制限がありながらも昔の人はわりと自由に手紙を書いていたように感じる。
今みたいに罫線などが印刷された紙も無いので、書き癖で曲がることもあるけど、紙も凄い貴重なので書き直しもしない。墨は消せないので、結構みんな間違えた文字はバツしたり墨で消していたり、上から紙貼ったり。
好きな紙とペン、好きな色やその時に使いたい色を用意して、自分の好きな形で書く。
そんな風に思えれば、みんな楽しく書けるように思う。
ガラシャも自分が書いた身内への手紙が、まさか死んで400年経ってもなお、博物館で晒されて、知らない人に色々言われているとは考えていなかったと思う。喜んでもらえればいいが。
仕事や書道を求められる時は、私も背筋を伸ばして、形式に則りきちんと書くが、本当は自由に書くのが好きだ。書道モードでない時は、同じ人とは思えない字を書くので、もし解説付きで展示されることを想像するとゾッとする。
ただ、私の手紙は、後世で温湿管理された保管庫にも入れられないはずなので、久々に気にせず思うがままに書きたい。お気に入りの紙とインクを用意しよう。
手紙だと、なぜか素直に伝えられる言葉もある。
仮名草書の散らし書きで手紙も書きたいが、読めないと苦情が来るので、ちゃんと現代で伝わる形で。