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森カズオ
日本人による初めての活版印刷。

日本人による初めての活版印刷。 | 活版印刷事始 - 森カズオ

天正遣欧少年使節

天正10(1582)年1月28日、ローマを目指して一艘の船が長崎港を出港した。船内には、13~14歳ほどの4人の少年が乗り込んでいた。九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として派遣された、いわゆる天正遣欧少年使節である。

使節の構成は、主席正使の伊東マンショ、正使の千々石ミゲル、副使の中浦ジュリアン、原マルティノの4名を中心に神父など数名が随行していた。その中には、印刷技術習得要員も含まれていた。

一行は、2月15日にマカオに到着。翌年11月7日には、マラッカのコチンを経てゴアに着いた。ここで、使節派遣の発案者であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が船を降り、一行は一路ヨーロッパを目指して航海を続けていく。

出航から3年余り経った天正13(1585)年1月30日、ついに一行はイタリアの地に足を踏み入れる。そして、2月22日。ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられた。

その後、グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席したり、ヴェネチア、ヴェローナ、ミラノなどの都市を訪問したりして1年ほど過ごし、天正14(1586)年2月25日、リスボン港から帰路についた。

1年ほどの航海の後、天正15(1587)年4月23日に一行はゴアに到着。ヴァリニャーノ神父との再会を果たす。そして、天正18(1590)年6月20日、故郷の長崎に着き、8年半にわたるローマへの旅に幕が下ろされたのである。

ざっと天正遣欧少年使節の概要を追ってみた。今でこそ、中学生の海外留学は、そう珍しいことではなくなっているが、国内旅行でさえ大事だった当時、見知らぬ国へ、しかも誰も渡ったことのないような大海原を越えて、はるかヨーロッパを目指した少年たちの勇気はいかほどのものだったろう。まさに冒険と呼ぶにふさわしい旅だったのではないだろうか。

ところで、彼らが長崎に戻る前、天正15(1587)年7月に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出した。きっと彼らが戻った時の世相は、かなりキリシタンにとってリスクの高い状況だったことだろう。司祭になることに憧れて危険を承知で海を渡った4人は、どんな気持ちで長崎の土を踏んだことだろう。後に追放された伊東マンショや原マルティノ、処刑された中浦ジュリアン、棄教した千々ミゲル。いずれもが、あまり幸福とはいえない生涯を歩むこととなったのが、なんとも象徴的である。

前置きが長くなったが、ここで本題に移りたい。日本人による初の活版印刷の話である。先にも書いたが、使節の中には、印刷技術習得要員もいた。派遣者の並々ならぬ印刷への思いがわかる。活版印刷の技術は、この頃すでにフランシスコ・ザビエルが率いたイエズス会によってもたらされていて、その存在や価値、効用などは知られていたはずである。それを何よりも自らの技術にしたいという希望があったのだろう。その夢は、帰路のゴアで形となった。この地で原マルティノが行った演説が本としてまとめられたのだ。それが『原マルティノの演説』。日本人による初めての活版印刷物。天正15(1587)年のことだった。この書籍は世界中で4冊存在していることが確認されている。

彼らは、ヨーロッパからグーテンベルグの活版印刷機も持ち帰っていた。それを使って、さまざまなローマ字、漢字・仮名による印刷物が刷られた。いわゆるキリシタン版と呼ばれるものである。これらの活版印刷は、次々に出されるバテレン追放令やキリシタン禁教令などの影響で、印刷が禁止されたり、印刷機がマカオなどの海外に移されたりして、急激に下火になっていく。そして、ついには途絶えてしまうことになった。次に、この火が再び灯るのは、幕末から明治維新の頃まで待たなければならない。

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