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森カズオ
嵯峨本と角倉素庵。

東アジアで初めて、西洋印刷術で印行された書物『銃暦、鉄砲伝来』 - 嵯峨本と角倉素庵。

『銃暦、鉄砲伝来』。私が中学・高校の頃には、鉄砲が伝来したとされる1543年をこのような言葉で憶えたものでした。キリスト教の世界的布教をめざして、イエズス会が大航海時代の波に乗り、日本の種子島に上陸したのが1543年のこと。この時、鉄砲といっしょに、いわゆるグーテンベルグが発明した活版印刷技術(機器や資材なども含めたもの)が伝えらえたと考えられています。その際、持ち込んだイエズス会の人たちが刊行した印刷物を『キリシタン版』と呼んだりしますが、これは東アジアで初めて、西洋印刷術で印行された書物として知られています。まさに、日本の活版印刷の第一歩と呼べるものでした。

東アジアで初めて、西洋印刷術で印行された書物『銃暦、鉄砲伝来』 - 嵯峨本と角倉素庵。<

キリシタン版と駿河版…そして、嵯峨本。

以前、『徳川家康と活版印刷-駿河版銅活字』で、書かせていただきましたが、イエズス会が活版印刷をもたらしたことで、『キリシタン版』という印刷物が生まれたのですが、同時に秀吉の朝鮮出兵をきっかけにして、半島からもたらされた金属活字と活版印刷の技術が、日本でも普及しつつありました。それらがひとつになって生まれたのが家康の『駿河版』と言えるのかもしれません。

イエズス会の『キリシタン版』、徳川家康の『駿河版』と時期を同じくして、さまざまな活版印刷への挑戦が日本の各地で起きました。加藤清正から奏上された朝鮮の活版印刷機資材を使って後陽成天皇が勅命で刊行させた『文禄勅版』や『慶長勅版』などをはじめ、民間での活版印刷での印行も数多く行われていたようです。それらの印行の中で、その質の高さで後世まで名を残しているのが『嵯峨本』と呼ばれる活版印刷物です。

嵯峨本のキーパーソンは、角倉素庵、本阿弥光悦、俵屋宗達。

『こといろはノート・た』 - 嵯峨本と角倉素庵。

『こといろはノート・た』
高瀬舟 行き交う偉業 角倉了以
イラスト:中川学・コピー:森カズオ
中川学/浄土宗西山禅林寺派の僧侶にしてイラストレーター。角倉了以翁ゆかりの寺、慈舟山瑞泉寺住職。

京都随一の繁華街・三条木屋町に周囲の喧騒とは別世界をつくりだしている空間がある。それが、慈舟山瑞泉寺。ここは豊臣秀吉の甥で後に養子となり関白を継いだ豊臣秀次公の首塚と斬首された彼の妻妾や子ら三十数名を弔うために400年ほど前に建立された由緒ある寺院である。これを建てたのは、高瀬川や大堰川、富士川の開削で知られる京都の豪商・角倉了以。嵯峨本刊行の立役者である角倉素庵は了以の長男である。彼は、近世儒学の祖として知られる藤原惺窩に儒学を、書を琳派の創設者として知られる本阿弥光悦に学んだ、いわゆる当時の学識人である。彼は、父・了以の家業を継ぎ、貿易業や土木事業にも携っていたが、のちに活版業を志す。きっと、キリシタン版や駿河版からの刺激を受けていたのだろう。しかし、病に侵され、家業を子に譲って嵯峨野へ隠居することになる。その後、光悦門下であった俵屋宗達の協力を得て、活字本を刊行した。これが、いわゆる『嵯峨本』である。

『こといろはノート・た』 - 嵯峨本と角倉素庵。

『こといろはノート・た』
高瀬舟 行き交う偉業 角倉了以
イラスト:中川学・コピー:森カズオ
中川学/浄土宗西山禅林寺派の僧侶にしてイラストレーター。角倉了以翁ゆかりの寺、慈舟山瑞泉寺住職。

嵯峨本のキーパーソンは、角倉素庵、本阿弥光悦、俵屋宗達。

角倉了以(角倉素庵の父)像/慈舟山瑞泉寺蔵 - 嵯峨本と角倉素庵。

角倉了以(角倉素庵の父)像/慈舟山瑞泉寺蔵

『嵯峨本』は、木製の活字を使って印行された書物で、近世後期(18世紀から19世紀前半)に刊行された、いわゆる『古活字本』に分類されている。

雲母刷りの用紙を使ったり、装幀に意匠を凝らすなど、豪華さが大きな特徴となっている。また、木活字は、一般的に知られる一文字=一活字ではなく、光悦(素庵の説もある)の縦書き書を2~3文字単位で活字化し、組み合わせて版に仕上げたという。一説では、ある書物では、約2100個の活字が作られ、一度しか使われなかった活字が全体の16%をも占めていたという。このような手間暇をかけて『嵯峨本』は刊行されたのである。まさに、文化に対する京の町衆の強い想いが反映された出版物と言えよう。

『嵯峨本』として刊行されたのは、『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』などの古典文学が主で、他に謡曲の本も出版された。これらの内容が選ばれたのは、角倉素庵の古典への造詣の深さが起因されていると考えられている。

京都という土地で、活字本が作られた背景には、いわゆる京都五山において出版事業が盛んに行われ、その職人たちが技術を蓄積していたこと、豊かな知識を持った読者たちが多数存在していたこと、そして何より、文化を愛し、富を持った商人がいたことが考えられる。それらが三つ巴の力点となって、『嵯峨本』は刊行されたのである。

角倉了以(角倉素庵の父)像/慈舟山瑞泉寺蔵 - 嵯峨本と角倉素庵。

角倉了以(角倉素庵の父)像/慈舟山瑞泉寺蔵

古活字本は、やがて衰退。『嵯峨本』は幻の存在に。

美しく豪華な書物であった『嵯峨本』であったが、手間暇のかかる製造工程が仇となり、やがて衰退の途を歩むことになる。やはり、大量に安価に刊行するには、木版が有利だったのである。かくして、民間による活字印刷への挑戦は、ここでひとまず幕を下ろすことになる。世界の印刷史から見て、稀有な「活版→木版」という逆流が起こったのである。

そして、活版の経験値を持った日本の木版文化は、活字を主とした刊行物では、『黄表紙』『人情本』『滑稽本』などを生み出し、絵を主としたものでは『浮世絵』『錦絵』などを誕生させ、大いに盛り上がることになる。その頃、『嵯峨本』は幻の存在となってしまっていたが、そのDNAは、確実に江戸の人々に受け継がれていたのである。そして、そのDNAは、現代の私たちにも確実に流れているように感じるのだが、いかがなものだろう。