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森カズオ
近代活版印刷の父 本木昌造。

近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

江戸時代に途絶えた金属活字での印刷文化。

15世紀半ばのグーテンベルグの発明以来、100年ほどを経て、ヨーロッパの活版印刷技術はアジアの辺境にも進出してきた。16世紀の末期、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に戦利品として金属活字が日本にもたらされたのである。その金属活字による印刷は、書物フェチだった徳川家康の手による『駿河版』(1607年・慶長12年)などが世に出され、ほどほどに花を開くこととなった。しかし、家康のミームは、後世に伝えられることはなかった。アルファベットに比べて、文字種が莫大に多いことや文字をつなげて書く(特にかな書き)などの日本語の特性から、木版による印刷の方が効率面で優っていたのである。江戸時代を通じて、この木版印刷が『戯作本』などに展開され、日本の出版文化を支えていくことになる。金属活字による活版印刷の灯は、まったくといっていいほど、日本では消え絶えていた。

戯作本『浮世床』式亭三馬著 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

戯作本『浮世床』式亭三馬著

近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

戯作本『浮世床』式亭三馬著 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

戯作本『浮世床』式亭三馬著

幕末、再び金属活字による印刷が脚光を浴びる。

“太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず”。マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船が浦賀湾に現れたのは1853(嘉永6)年のこと。世にいう“黒船来航”である。日本史では、これから“幕末”がはじまったとされている。その後、国内では急激に海外諸国の情報を収集しようという機運が高まった。そんな中、1857(安政5)年、オランダに依頼していた幕府海軍の軍艦『咸臨丸』が完成し長崎に寄港した。『咸臨丸』といえば、日本で初めて太平洋を往復し、勝海舟が艦長を務め、ジョン万次郎が通詞を務めたとされている軍艦として知られている。この軍艦には、活版印刷技師が搭乗していたが、彼は、出島に印刷所を設立し、持参してきた印刷機器を使って、何冊かの蘭書を制作した。このような状況の下、灯を絶やしていた金属活字による印刷にも、再び光が当てられることになる。日本で最後に金属活字による出版が行われて2世紀半の歳月が流れていた。

黒船来航の様子 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

黒船来航の様子

黒船来航の様子 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

黒船来航の様子

長崎・平戸の通詞の家系に生まれた本木昌造。

近代活版印刷の父と称される本木昌造は、1824(文政7)年、長崎に生まれた。本木家は、平戸のオランダ通詞を担った家系で、昌造も幼い頃よりオランダ語を学び、オランダの書物を通読し、舶来の技術や文化に強い興味を持っていたという。若くから幕府の通詞を務め、下田でのロシアとの条約交渉(相手はプチャーチン)に当たったりしていた。また、通詞を務める傍ら、西洋への興味から操船や造船、製鉄などにも関わっていった。

本木昌造の肖像写真 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

本木昌造の肖像写真

1856(安政4)年のこと、長崎奉行所は、「活字判(版)摺立所」を設立した。オランダから持ち込まれた活字と印刷機を用いて印刷物をつくる施設であった。昌造は、この施設の活字判摺立方、摺立掛に任命された。その任に当たる中、彼は、『和英商賈対話集』(1859年・安政6年)、『蕃語小引』(1860年・万延元年)などの和蘭書や蘭和辞典を印刷刊行していったのである。この活動を通じて昌造は、活版印刷の美しさや技術の高さに感銘を受けるとともに、その伝達力の可能性を見出していった。そして、「いつか自らの手で、日本語の刊行物をつくってみたい」と思うようになっていった。

本木昌造の肖像写真 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

本木昌造の肖像写真

日本の印刷文化の礎となった本木昌造。

大政奉還による「王制復古の号令」が出され江戸幕府の時代は終わりを告げる。いよいよ明治維新がはじまった。1868年のことである。昌造は翌年の1869(明治2)年に「新街私塾」という学校を設立し、造船・操船や鉄橋製造の技術向上に寄与したが、同年、「活版伝習所」も開設した。ここでは、中国・上海にある印刷所「美華書館」の館長であり活版技師であったウィリアム・ガンブルを招き、電気メッキ技術を応用した“蝋型電胎法”という活字母型製造法を習得するなど、活版印刷のための活字鋳造及び組版の講習が行われた。

近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

翌1870(明治3)年、昌造は活版伝習所を退くとともに新街私塾内で「新町活版所」を創業。これが、日本初の民間活版事業をはじめたのである。ここでは、蝋型電胎法によるオリジナル活字や三号楷書、三号行書(和様)などの活字が鋳造された。そして、明朝鋳造活字を使った『保健大記』を刊行する(現所在は不明)。同年には、活動範囲も拡大されていく。弟子の酒井三造と小幡正蔵、谷口黙次を大阪に派遣し「長崎新塾大阪活版所」を、横浜には同じく弟子の陽其二を派遣し「横浜活版所」(日本初の日刊紙『横浜毎日新聞』を発行したとして知られる)を、そして京都には古川種次郎を派遣し「點林堂印刷所」を開業させている。このように、明治の代になり、活版は急速に裾野を拡げていったのであるが、その立役者の一人として本木昌造は大きな役割を果たした。

『築地体』書体見本 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

『築地体』書体見本

本木昌造は、1875(明治8)年に故郷である長崎の地でこの世に別れを告げる。享年52歳。若すぎる昇天であった。しかし、彼なき後、弟子の平野富二は東京築地活版製造所をつくり、現在使われている印刷文字の源流となっている「築地体」を生み出すなど、昌造がまいた種は着実に育っていった。今や日本は、世界でも有数の印刷大国であり印刷先進国となっている。その精度の高さ、技術の高さは世界に認められている。その礎をつくったのが、他でもない本木昌造である。彼なくしては、今の日本の印刷を語ることはできない。

近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

『築地体』書体見本 | 近代活版印刷の父 本木昌造。 - 森カズオ | 活版印刷研究所

『築地体』書体見本