白石奈都子
故郷の川
Sustainability:持続可能性、サステナビリティ。
環境問題が叫ばれる昨今において、企業や生産、社会活動において頻繁に耳にする言葉である。
生産から廃棄に至るまで地球環境も考えて作って、地球や人を守ろうね、ということらしい。アートやデザインの世界でも考えざる得ないことになっている。
かつての日本ではどんどん作って、欲しいものや新しいものを買い、要らないものや余ったら棄てちゃえ、ということが横行していた。
若かりし自分においても、土に還らないどころか分別もできないような物体を作り、砂漠に置き去りにされても飲むのを迷うような色水を構わずタレ流していた。
幼少期は東京の下町で育った。
記憶にある故郷の川は、いつも暗い灰色だった。いや、黒かったのかもしれない。
空の色が水面に映ることもなかった。
高架橋を走る電車の窓からそっと灰色の川を覗くと、まるで生臭い息を吐くドス黒い怪物が潜んでいるようで、怖かった。
アートにサステナビリティは必要なのか。
囚われ過ぎれば表現を狭められるのではないか等等、度々自問する。愚問だと言われるとも思うが、正直、何が正解なのかわからない。
では、使用する材料や画材は全て天然素材がいいのか、という訳でもなかろう。一部の顔料絵具のように自然物でも毒性があるものもあるし、どんなものでもきちんと後処理をしないと現代の下水道管に影響を及ぼすであろう。環境が汚染されれば良い紙も道具も作れない。良い道具がなければ生まれ難いものもある。表現と文化と持続可能性はどこかで繋がっている。
意識すること。良い道具を選び、正しい処理をする。せめてそれだけならできる。
中世の画家は、求める色のためには毒性のある絵具も厭わず、身を挺して使っていたとも言われている。今ではそこまで強い毒性の絵具もないので、色に脅かされることもない。だが、求めるものがすぐ手に入る時代と国に生まれた自分に感じることはない、色や絵具に対する熱量にある種の羨望感を感じるが、きっとその状況になったら、今の自分の状況を羨むだろう。
無いものを求めてしまう未熟さを恥じ、自分の置かれている状況や間接的にでもその維持に努める方へ、感謝を持ってやるべきことに挑もう、と改めて思う。
某日、幾年月を経て見た故郷の川に行った。
もうドス黒い怪物も見えなくなり、薄らと空の色を映していた。
私一人から発生するタレ流しはきっと些細な量だろう。だが、その僅かなタレ流しを変えるだけでも、いつの日か空の色を映す川が見られるようになるかもしれない。