生田信一(ファー・インク)
“THE LOVING INSTRUCTION MANUAL”
──世界で一番あたたかい取扱説明書
きっかけはYouTubeで公開されたムービー“THE MOST LOVING INSTRUCTION MANUAL”でした。
このムービーは2017年3月7日に公開、2017年4月末現在で視聴回数15万回を越え、大きな反響を呼んでいます。ムービーの中で登場する“THE LOVING INSTRUCTION MANUAL”は、生理周期・体調管理サービス “ルナルナ”とロート製薬による妊活応援プロジェクト“Hand in Hand”のキャンペーン第一弾として作られたものであることを知りました。
ムービーでは、こどもを授かりたいと願う女性が2月2日の「夫婦の日」に、男性パートナーに本を贈ります。それが世界でただ一つの“私の取扱説明書”、すなわち“THE LOVING INSTRUCTION MANUAL”です。このボックスには、女性の体と心のしくみをテキストと鉛筆画のイラストで綴った冊子、二人で楽しむパズル、さらに音楽までもがセットされてます。
この本のアートディレクションを担当したのが、グラフィックデザイナー/アートディレクターの髙谷廉さん。今回のコラムは、髙谷さんにこの本の制作背景をお聞きするために、仕事場へお邪魔しました。本の実物を見せていただきながら、キャンペーンについてお話いただきました。
後日、印刷加工を担当された株式会社サンエムカラー、株式会社美箔ワタナベの2社を訪問し、お話をお聞きしました。この本の制作に携わった方々の苦労や努力、そして情熱をお伝えしたいと思います。
“THE LOVING INSTRUCTION MANUAL”の内容は?
最初の興味は、この本はどんな内容なのだろう? ということでしょう。写真と合わせて少し解説します。
(写真1)がボックスの外観。“THE LOVING INSTRUCTION MANUAL”の文字が浮き上がって見えます。通常のエンボス加工ではなく、ベースの紙の上に種類の異なる紙を嵌(は)め込む「紙象嵌」(かみぞうがん)という加工が施されています。紙象嵌については、後ほどその仕組みや加工方法を解説します。
蓋を開けると、白のボードに「1 INTRODUCTION」の文字が見えます(写真2)。ボードの裏側には、贈り先と贈り主の名前を書けるようになっています(写真3)。ボードの裏側には収録されている内容が記されています。各タイトル文字には紙象嵌が使われ、文字部分が立体的に浮き上がっています。
収められている冊子は4冊。「2 WARNINGS」「3 SPECIFICATIONS」「4 MAINTENANCE」「5 TROUBLE SHOOTING」のタイトル文字がそれぞれ紙象嵌で浮き上がって加工されています。一見すると取扱説明書のようなタイトルですが、それぞれ「あなたにしてほしくないこと。」「私について。」「あなたにしてほしいこと。」「いつもと様子が違うとき。」と読み換えることができます(写真4、5)。
冊子を開くと、左ページにテキスト、右ページにイラストがレイアウトされています。鉛筆画のイラストが柔らかなタッチで情感を伝えます(写真6、7)。
冊子「5 TROUBLE SHOOTING」の最後のページには、女性から男性パートナーへのメッセージが添えられるように、封筒がセットされています。
「6 OUR COLORS」のボックスにはジグゾーパズルが収められています。パズルを組み立てると、ふたりの関係と、心と身体のバイオリズムが7つのカラーでビジュアル化されて現れます。
最後は「7 OUR SOUNDS」のレコードです。「あなたと私の音。ふたりの日々のリズムを音楽にしました」と解説されています。音を聞かせてもらいました。チェロ、ビオラ、ピアノのアンサンブルのやさしい旋律でした。
ブック製作の裏側──精緻な紙箱と紙象嵌
この本は、さまざまな見所があります。髙谷さんは「今回のプロジェクトでは、最高レベルの技術を持った印刷・加工会社の職人さんたちの手を借りました」と話します。本を手にした人が、驚き、感動するしかけが随所にあります。少しずつ掘り下げながら紹介します。
本のパッケージは全体が白を基調にしたデザインで、洗練された大人の雰囲気が漂います。アートディレクションを担当した髙谷さんは、「この手のキャンペーンは問題がデリケートですし、ディフォルメされたイラストやデザイントーンが多いのですが、最終的にこの本を手にする男性パートナーが先入観なく、そして簡単に読み進められるようソリッドでありながら機能するデザイントーンを目指しました」と話してくれました。
まず外箱を見てみましょう。白をベースにしたシンプルなデザインで、精巧な作りになっています。細部を見ると、厚みのある白の板紙が45度の角度で斜めにカットされています。本体と蓋が合わさる部分も、断面が45度にカットされ、蓋を閉めるとぴったり密着します。精巧な技術を要する紙加工であることが窺えます。パッケージに収められた鉛筆、パズル、レコードを収納する箱にも精緻な加工が施されています(写真12、13)。
冊子の印刷や箱を手がけたのは、株式会社サンエムカラーさんです。同社、東京支社の篠澤篤史さんにお話を伺いました。「最初に問題となったのは、箱の製造を引き受けてくれる会社を探すことでした。こうした加工ができるのは、おそらく西日本でも数えるほどしかないでしょう」と篠澤さんは語ります。
箱は、白ボールの表裏にルミナホワイトという用紙を合紙加工し、さらにPP加工を施して表面を保護する構造になっています。さらに箱の上蓋や本の表紙には、紙象嵌を施してタイトル文字を加工します。タイトル文字も紙でできており、コットン100%配合のクレーンレトラという用紙が使われています。紙象嵌を手がけた株式会社美箔ワタナベ 工場長の籠田勝浩さんは、次のように説明してくれました。
「この案件は、弊社が有する技術の全てを体現しました。タイトル文字は紙象嵌で表現されており、細い部分では1mm幅です。紙象嵌では金属の抜き型を使用するのですが、型を発注するにしても、普通は技術的に難しくて引き受けてくれません。しかし、技術革新には新しい考え方が必要不可欠です。今回のプロジェクト内容を説明し、製作していただきました」
「紙象嵌」という言葉を初めて聞く方も多いと思いますので、少し解説します。象嵌(ぞうがん)は、工芸技法のひとつで、象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味があります。象嵌本来の意味は、一つの素材に異質の素材を嵌め込むという意味で、金工象嵌、木工象嵌、陶象嵌などがあります。印刷技法の「紙象嵌」は、種類の異なる紙を嵌め込む技法を指します。
工程を説明すると、ベースの用紙に糊を塗布し、別の用紙をその上に重ね、上から抜き型(写真14、15)でプレスすることで重ねた用紙が接着します。今回は文字を嵌め込むのですが、文字以外の部分を後で取り除くことで、文字部分が立体的な形で残ります(写真16、17)。プレスの作業は、アップダウン機という機械を利用します(写真18)。
タイトルの文字は、アルファベットで文字を組み、細いものでは1mmの文字幅、そして内外の鋭角にRを全くつけず抜くことに成功しています。ここまで精巧な紙象嵌はこれまでなかったそうです(写真19、20)。
文字の形状は、よく見ると土手のように盛り上がっていたり、ゆるやかに湾曲しています。文字部分を触わって楽しむこともできます。髙谷さんは「象嵌された文字は影が美しく落ちるように若干テーパーをかけています」と説明してくれました。
美箔ワタナベの営業 梅津さんが、最近手がけた作例で、紙象嵌のバリエーションを紹介してくれました。以下に、髙谷さんが以前手がけられた展覧会のDMと、美箔ワタナベで作られた年賀状を掲載します。「重ねる紙の種類を変えることで、いろんな効果が現れます。たとえば弊社で作成した年賀状ではプライクという用紙の赤い紙を埋め込みました」(写真21、22)
冊子の印刷の秘密
冊子の印刷はオフセット印刷です。ページをめくると、テキストと鉛筆画のイラストレーションが現れ、実際にそのページに描かれているような質感を感じます。その秘密をサンエムカラーの篠澤さんが説明してくれました。
「イラストの鉛筆画はモノトーンに見えますが、実は3色刷りです。刷り色を決めるために、事前にテスト刷りを行いました。初校のテスト刷りではシルバー、グレー、スミの3色を使って効果を確認しました。網点は、FMスクリーンと230線のAMスクリーンで刷り分けています(写真23、24)」
FMスクリーンとAMスクリーンの違いをルーペで覗くと、違いがはっきり確認できます(写真25、26)。AMスクリーンは規則的に網点のドットを生成するのに対し、FMスクリーンでは網点がランダムな粒子になります。肉眼では、印刷物の細かなドットの形状までは本来見えないはずですが、並べて比較してみると、やはりFMスクリーンの方がなめらかに感じます。「弊社で手がける写真集でも、FMスクリーンで刷ることが多くなっています。次の選択肢としてAMスクリーンがあります。また、1000線の超高精細印刷という選択肢もあります」と篠澤さん。
実際の鉛筆画のイラストの表面は、鉛筆の細かな粒子が紙の上に乗った状態なので、表面の凹凸に光が乱反射してキラキラと煌めいて見えます。シルバーのインキを使うと、こうした質感を再現する効果があります。ルーペで覗くと、シルバーの細かな粒子がきらきら光っているのがわかります。印刷仕様は最終的に、FMスクリーン、3色(シルバー、グレー、スミ)で進行することに決定しました。
しかしながら、この本やパッケージは全体が白で統一されているために、製造面では気をつかったそうです。「白はわずかのキズでも目立ちますから。特に今回は紙象嵌の工程で文字以外の紙を取り除く作業がありましたから、剥がすときに傷つけないように慎重に作業しました。また、ボードは湿気を吸うので反りが生じやすいという問題もありました。反りが出ないように生産工程をスピーディーに組むことも必要でした」と篠澤さん。
(写真9、10)のジグゾーパズルは特色7色の掛け合わせです。発色が鮮やかに見えますが、その秘密は、ベースとなるシルバーの特殊紙(ハイピカ)にオペークを印刷し一部分を隠蔽します。その上に蛍光色とプロセスカラーを重ねた構造になっているからだそうです。シルバーの上に淡いインキを載せるオーバープリント(「ノセ」といいます)、あるいは下地の色を抜いて重ねるノックアウト(「抜き」といいます)の指定は、髙谷さんが現場に立ち会って細かく指示されたそうです。
まとめ──特殊印刷・加工について
現代の社会は、子供を産み、育てる環境を得るまでに、男女とも時間がかかり、結果として晩婚化が進んでいる現状があります。妊活を支援するこのキャンペーンでは、気心の知れた仲のよいご夫婦でも、気軽に話すことが難しいテーマに対して、デザインという手法を使ってサポートすることに真正面から取り組んでいます。デザインと印刷・加工技術を駆使した、素晴らしいコミュニケーションツールになっています。
こうしたツールに紙象嵌という特殊印刷・加工を使ったことは、とても興味深く思います。“特別な思いを盛り込む”ための演出手法として、最上の選択であったと言えるでしょう。紙象嵌は手間がかかり、高価なのですが、箔押しや活版印刷でも同じことが言えます。予算の制約の中で実現が難しいことも多いのですが、注目しておきたい技術です。
紙や印刷インキについても同じことが言えます。用紙や刷色、網点の形状などを変えることで、印象が大きく変わります。デザイナーばかりでなく、編集者、プランナーなどのコンテンツを作る立場の人は、こうした引き出しを多く持っていることがこれからは重要になってきますね。
素朴な疑問として、髙谷さんに紙象嵌を選んだ理由を尋ねてみました。「所詮、男と女は別の生き物であって、お互い到底理解に苦しむ存在です(笑)。それでも一緒になった男女は奇跡的ですよね。異なる性の人間が妊活を通して互いの寄り添い方を知ったり深めるという観点は、象嵌で用いた性質が異なる2種の紙を合わせる(紙に紙を嵌め込む)ことで、1つのもの(ツール全体の役割や機能)を体現するということに置き換えられると考えたからです」との答え。
このキャンペーンは2月にスタートし、第二弾では、このツール内に収められている冊子のオンライン版(レコードの音源はこちらで聴くことが可能です)が近日中に公開され、同じ問題を抱える男女を対象としたワークショップなども予定されているそうです。次の展開が待ち遠しいです。
最後に、今回の取材でお話を聞いたみなさんに活版印刷や箔押しなどの特殊印刷・加工技術について思うことを語っていただきました。その一部をご紹介します。
髙谷さんからは、以前作成した活版印刷のポスターとショップカードを見せていただきました(写真27〜39)。6枚からなる連作のポスターで、並べてみると迫力があります。このポスターは、東京、中目黒にある「TAVERN」というN.Y.ブルックリンスタイルのレストランに飾られたそうです。ネットで調べてみると、焼きたてのパンと美味しい肉料理が自慢のお店のようです。余談ですが、活版印刷とパン屋さんは不思議と相性がいいですね。どちらにも手作り感があふれているからでしょうか。
髙谷さんに、活版印刷を手がける際にデザイナーが気をつけることは? と尋ねてみました。「活版印刷では、デザイナーが印刷に立ち会うことがなによりも大事」とのアドバイス。活版印刷は変動要因の多い印刷技法ですから、現場での仕上がりチェックは欠かせません。また、デザイナーが印刷現場に足を運ぶことで、得られるものも大きいと思います。
サンエムカラーの篠澤さんは「最近は、活版印刷の案件が増えています。でも周囲に頼れる会社が少ない」と嘆きます。「シリンダーの印刷機で大判を刷れるところを探しています。困ったときは、整袋した封筒を活版印刷で仕上げている印刷会社さんに頼む場合もあります」と語ります。
美箔ワタナベの籠田さんは、「活版にしろ、箔押しにしろ、最終的にはクリエイティブの力が頼りなると思います。デザイナーの方が望むアイデアを実現するためには力を貸したい。工場には廃棄してしまう箔がいっぱいあるんですよ。そうした材料を有効活用して、クリエイターさんのお役に立てるといいんですけど」と語ってくれました。
美箔ワタナベさんでは、梅津さんに案内していただき、工場の機械設備を見せていただきました。「箔押しの印刷機は、活版印刷機を改良して作られたものが多いです。しくみは同じですから。箔押しでは、金属の箔版に120〜150度の熱を加えて箔材を転写するところが違います」と説明してくれました。
なるほど、工場の一角には、ハイデルベルグの活版印刷機「プラテン」と同じような動きをする箔押しの印刷機が3台並んでいます。「これらの印刷機は、名刺やカードなどの小型の印刷物の需要で大活躍しています。ハイデルベルグの機械は1950〜70年の間に製造されたものですが、ずっと故障せずに稼働し続けています。ヨーロッパの、とりわけドイツやスイスの機械は頑丈です(写真40)」
箔押しも、金型でギューと押しつけると、紙が凹んで、活版印刷と同じようなデボス効果が得られます。板紙のような厚手の硬い紙の場合は、100トンもの圧力をかけることもあるそうです。そんなに圧をかけて版は痛まないのかと尋ねたら、丈夫な金属で版をつくれば大丈夫とのこと。
また、同社で導入したギーツ社の最新鋭機「FSA 1060 Foil Commander」も見せていただきました。こちらは1060mm幅まで対応する大型自動機で、国内に数社しか導入されていないとのこと(写真41)。さまざまな箔押しの印刷機を見ることができて、とても参考になりました。
今回の取材は、美術やアート印刷を得意とするサンエムカラーさん、箔押しやエンボス加工の分野では定評のある美箔ワタナベさんを訪問し、お話しをうかがうことができました。また、素敵なキャンペーンの情報をいただき、取材に協力いただいた髙谷廉さんには厚くお礼申し上げます。
長いテキストを最後まで読んでいただきありがとうございました。