森カズオ
世界で最も知られた日本人絵師・葛飾北斎。
『画狂老人卍』
翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし と言吃りて死す
これは、葛飾北斎が臨終の際に遺した言葉だといわれているもの。「死を目前にした翁(北斎)は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら…』と言い、しばらくして、さらに、『天があと5年の間、命を保つことを私に許されたなら、本物の画工になり得たであろう…』とたどたどしく言いながら死んだ」ということらしい。この時、北斎は卒寿(90歳)。彼の壮絶な絵との格闘の長い人生は、ここで幕を降ろしたのである。今から170年ほど前の嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉のことであった。
世界で最も有名な雑誌のひとつ米『ライフ』誌の特集「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(1999年)で、日本人で唯一ランクイン(86位)した葛飾北斎。モネやドガ、ゴッホといった印象派の画家たちをはじめ多くのアーティストに多大な影響を与え、世界で最もリスペクトされている日本人絵師として知られている。しかし、彼の絵師としての人生は、決して順風満帆ではなかった。
彼が生まれたのは、江戸時代の後期である宝暦10年9月23日(1760年10月31日)。幼い頃から手先が器用だったといわれているが、14歳の頃には、貸本屋の丁稚や木版彫刻師の徒弟などに就く。それら経験から貸本の挿絵に興味を持ち、絵師の道を志したという。安永7年(1778年)、18歳になった頃、当時の人気浮世絵師・勝川春章の門下となって、「勝川春郎(しゅんろう)」と号し、名所絵や役者絵、黄表紙の挿絵などを描くようになる。デビュー作は、役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」〈安永8年(1779年)〉といわれている。
もともと絵に尋常ならざるこだわりを持っていた北斎は、浮世絵に飽き足らず、師匠には内緒で狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学んだ。しかし、それが仇となる。他派の画法を学んだことを咎められ、勝川派を破門されてしまうのである。ここから、彼の苦難の絵師人生がはじまる。生活に窮した北斎は、灯篭や団扇などに絵を描いたり、時には行商までして食いつないだそうである。そんな中でも、決して筆を走らせることを止めなかった。
元々、金銭には無頓着な性格であったが、北斎にはどん底の貧乏生活が続いた。しかし、彼の絵師としてのプライドは異様なほど高かった。こんなエピソードがある。北斎が46歳の頃、長崎のオランダ商館の館長が北斎の作品を高値で買い上げた。それを見た随行のオランダ人医師が同じ作品を注文してきた。絵が完成して納品に行くと、医師は「館長ほど金持ちではないので半値にまけてくれ」という。北斎は「最初から言っていれば、半額でできる描き方もあったのに」と憤って、作品を渡さず持って帰った。それを見た妻が「半値でも生活の足しになるのに…」と苦言を呈すると、「同じ絵なのに相手によって値段を変えると、日本の絵師は相手を見て値段を決める信用ならないやつだと思われる」と答えたという。ちなみに、このオランダ人医師は、かのシーボルト(彼は、のちに日本の外交機密に触れる地図や絵画を持ち帰ろうとしたとして罪に問われる、いわゆるシーボルト事件が起き、北斎も関連を疑われかけたという)である。
『北斎漫画』の刊行などで少なからずの人気を得ていたものの、本道の絵師としては鳴かず飛ばずだった北斎に、ついに転機がやって来る。『富嶽三十六景』の刊行である。これは各地から眺めた霊峰・富士とそこで暮らす庶民の生活を生き生きと描いたもの。何年も構図を練りに練り、富士山の配置が計算し尽されている。これによって、江戸の人々は“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と大絶賛した。『富嶽三十六景』が開版されたのは、天保2年(1831年)、完成は同4年(1833年)。北斎は70歳を超えていた。まったく遅咲きの大輪の花であった。
その後も北斎は富士山をモチーフに絵を描き続け、『富嶽百景』を描く。これは富士山102図を描いた3巻からなる絵本で、初編は天保5年(1834年)に刊行され、2編は天保6年(1835年)、3編は刊行年不明。初版の際、北斎(北斎改為一筆)は75歳であった。『富嶽百景』跋文(後書き)において、北斎は下記のように綴っている。
己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども
七十年前画く所は実に取るに足るものなし
七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め
一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし
これを現代文に訳すと…
「私は6歳より物の形状を写し取るのが大好きで、50歳の頃からたくさんの絵画を描いたけれども、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりであった。73歳になってさまざまな生き物や草木の姿や形をいくらかは描けるようになった。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。願うのは、長寿の神に、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただくことである。」
まったく謙虚なのか高飛車なのか分からないが、北斎の絵に対する並々ならぬ意気込みは伝わってくる。
一流の絵師として知られる北斎は、奇人としても有名だった。号(画家としての名前)を改めること30回。「勝川春朗」にはじまり「群馬亭」「北斎」「宗理」「辰(とき)政(まさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「魚仏」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」晩年は「画狂老人卍」と号したという。また、引っ越しも度々行い人生で90回以上も宿替えをしたという。時には1日に3度も引っ越したというから尋常ではない。生活態度も実に乱れていた。料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。家には食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置したという。しかし、酒は飲まなかったらしい。煙草もたしなまなかった。金銭にも無頓着で、高い画工料がもらえるようになっても金銭を貯えることはしなかった。また、行儀作法を好まず、人に会っても一礼もしたことがなく、いつもそっけない態度だったそうである。赤貧で衣服にも不自由するくらいだったといい、紺縞の手織木綿、柿色の袖無し半天で通していた。北斎の家を訪れた人は「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」と残している。
このように、まったく自由奔放な北斎であったが、それゆえのエピソードも数多く遺されている。津軽藩主や人気の歌舞伎役者からの依頼を反古にして怒りを買ったりした。しかし、その一方で、天才ならではの話もある。ある時、元勘定奉行に召された北斎は、最初に普通の緻密な絵を描いていたが、その席にいた子どもたちにひねった半紙を与え、墨をつけて紙の上に垂れさせた。その無造作についた墨に筆を加えて妖怪画に仕上げ、見ていた人を驚かせたという。また、11代将軍徳川家斉に呼ばれた際には、描いた川の絵の上に足の裏に紅をつけた鶏を走らせ、着いた足跡を紅葉に見立て「竜田川にございます」と言い放ったという。
森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表したという北斎。達者な描写力、速筆、そして奇行で知られる彼も寿命に勝つことはできなかった。浅草の聖天町・遍照院(現浅草六丁目)境内の長屋で病み、生を終える。あと10年、いや5年生き長らえたら本物の絵師になれる…という想いを遺し、あの世に旅立ったのである。亡くなってから170年経った今、北斎は台東区元浅草の誓教寺に眠っている。法名は南牕院奇誉北斎居士。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原(人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)」であった。彼は、あちらでも、きっと一心に筆を走らせていることだろう。