生田信一(ファーインク)
展覧会『万太郎句抄と浅草図』と活版印刷の魅力
長い冬が終わり、毎日が過ごしやすくなり、暖かな休日には散歩に出かけたくなる季節が到来。そんな折りに舞い込んだメールが活版印刷のトークショーの案内でした。案内をいただいたのは「活版印刷の話が聞きたい」のイベントを企画されている東條メリーさん、会場は浅草近くの田原町にある書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」、テーマは展覧会『万太郎句抄と浅草図』とのこと、さらには「溝活版」のお話も聞けます(喜)。当日のゲストは、「溝活版」の横溝健志さん、イラストレーターの大高郁子さん。
私は、久保田万太郎の名前はうっすらとした記憶があります。私は一時期(今でも)落語にはまっていて、落語関連の資料を買い集めた時期がありました。本屋さんの落語、演劇のコーナーでは久保田万太郎の名前はよくみかけるので、名前だけはかろうじて知っていたという程度です。そこで、下調べに図書館で久保田万太郎の著書を借り、トークショーに出かけることにしました。
まさか、浅草、久保田万太郎、活版印刷がひとつの場所でつながるとは…。
『浅草図』と『久保田万太郎の履歴書』
展覧会『万太郎句抄と浅草図』が催された書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」に入ると、すぐ右上の壁面に大高郁子さん作の『浅草図』が掲示されていました(写真1)。浅草界隈を俯瞰して描いたイラスト作品で、B1パネルを6枚組み合わせた超大作です。
解説を読むと、久保田万太郎が生まれ育った浅草を一大パノラマにして創作した作品であるとのこと。右側には隅田川が描かれ、中央には浅草寺や浅草周辺の街並み、さらに左下には久保田万太郎が生まれ育った田原町が描かれています。解説によると、万太郎の生家と、祖母と一緒に浅草小学校に通う幼い万太郎の後ろ姿も描かれているとのこと。
制作した大高郁子さんに、トークショーでこの作品について解説していただきました。このイラストの制作にあたっては、浅草の街並みを俯瞰した資料写真が実在しているわけではないとのこと。浅草周辺は、1923年(大正12年)の関東大震災、さらに昭和期の東京大空襲により街が消滅し、浅草の風景は二度にわたって入れ替わってしまったそうです。
このイラストは、久保田万太郎が生まれ育った明治30年代頃の浅草の街を描きたいと思い、明治40年に東京郵便局、東京逓信管理局が編纂した『東京市十五区番地界入地図』を参考にし、家々の様子は万太郎の随筆『雷門以北』等に書かれたものからできるだけ拾って構成したものだと話します。
久保田万太郎は1889年(明治22年)東京 田原町に生まれました。万太郎の幼少期の記憶にある浅草の街並みを、絵の力で再構成したものとして捉えると、この絵が理解できそうです。細部にもこだわりがあり、浅草で暮らす人々が細かく描かれています。例えば浅草寺に続く仲見世は(写真2)のような構成になっています。
この絵は、2016年、人形町のギャラリー「人形町ヴィジョンズ」で開催された企画展「久保田万太郎と芥川龍之介」のときに制作され、2018年に刊行された『久保田万太郎の履歴書』(河出書房新社)の見返しにも使われています(写真3)。
溝活版と『名刺判久保田万太郎句抄100』
久保田万太郎は、劇作家であり、小説家であり、俳人でもありました。中でも俳句は、優れたものが数多く残されており、現代人でも馴染みのものをみつけることができます。浅草周辺には、万太郎の句碑が数多く存在するそうです。
今回の展示のもうひとつの主役は、万太郎の句を名刺サイズのカードに刷った『名刺判久保田万太郎句抄100』です(写真4)。この句集を手がけたのは、横溝健志さん。横溝さんは、大学教授を定年で退職され、現在は名誉教授としてご活躍されています。ご自宅の書斎に活版印刷の設備を持たれ、「溝活版」の屋号で、手動の活版印刷機でプライベートな印刷物を刷ってこられました。
トークショーで配られた、今回の展示に寄せた文章から、久保田万太郎の句集を手がけた経緯が述べられています。以下に抜粋して紹介します。
「この句集は、久保田万太郎の俳句から溝活版は200ほど選び、イラストレーターの大高郁子さんが100句に絞って絵を付け、100部を作った活版印刷による句集である」と述べ、さらに制作工程について以下のように解説されています。
「印刷はまず次々とメールに添付されてくる絵を紙にコピーし、名刺の大きさに程よく収まるように縮小して、写真製版の凸版とした。文字組みはあまり気にせず絵を先に刷り上げ、次に余白に文字を刷った。文字は句を五号、前書きは7ポイントの大きさの明朝体活字、出典に従って気の付く限り旧漢字を用いた。旧漢字は新たに購入したし、手持ちの活字と混じって母型はバラバラである。名刺俳句集という考えは図らずも製本の手間が省けた体裁になった」
句集の展示は、書店奥の絵本が並ぶスペースの一角で、『名刺判久保田万太郎句抄100』に収められた全作品が掲示されていました。さらに、はがきやしおり、関連書籍も一同に展示され、壮観でした(写真5)。
筆者が買い求めた句集の中身を見てみましょう。箱の蓋を開けると、100枚のカードに加えて、さまざまな付属品が同梱されていました。一般の書籍で言えば、本の前書きや本扉、目次、著者略歴の情報を伝えるカードが付属しています(写真6)。さらに外蓋の裏側には万太郎のイラスト、内蓋の底には奥付に相当するカードが貼り付けられ、100部印刷した内の通し番号が記されています(写真7)。
個々のカードの裏面には、表面の俳句の季節、ページ番号(ノンブル)も記されています(写真8)。ノンブルがあれば、後でページ順に並べて整理することもできるので安心です。ページ番号の100の後には「オマケ」と記されたカードが付属していました。遊び心に満ちた数々の仕掛けが盛り込まれ、楽しいキットになっています。これらがすべて手作りの活版印刷で作られたことを思うと、感動します。
展示されたパネルから、春(2月〜4月)と冬(11月〜1月)のカードを並べたパネルを見てみましょう(写真9、10)。レイアウトがさまざまで、楽しい構成になっています。イラストと句は別々に刷られたことを思うと、全体の雰囲気やバランスを考えながら注意深く配置を決めていったのでしょう。絶妙の間合いですね。
続いて、はがきサイズに仕上げられたカードを見ていきましょう(写真11)。絵や文字はそのままの大きさで、はがきサイズに合わせてバランスを取ってレイアウトされています。余白はメッセージを書き添えるスペースになります。万太郎の句に添えられた大高さんの描く犬や猫はどれも愛らしく、カードを受け取る人も喜ばれるのではないでしょうか。
カラフルな紐を付けたしおりも作成されました。(写真12)はトークショーの参加者に配られたものです。しおりも12ケ月のセットが用意されています(写真4参照)。
大高郁子さんの原画の展示
階段を登った2階のスペースには、大高郁子さんの原画が展示されていました(写真13、14)。ここでは大高さんの絵のタッチを間近に見ることができました。原画を拝見すると、鉛筆の線が一切入っていないことに驚かされます。最初に描いたものを修正する場合は、別の場所に改めて描き直しています。このことを大高さんに尋ねると、「線の勢いを大切にしている」との答え。「念のために描き直しをすることもありますが、最初に描いたものが一番よいことが多いですね」
久保田万太郎の俳句には、選り抜かれた言葉の組み合わせが絶妙で、読む人の心を強く捉えます。大高さんが描くイラストも、洗練された線が基本です。言葉も絵もシンプルです。見る人は、このことにより想像を広げ、深い情景を想起させるのでしょう(これって、落語にも言えることなのですが)。
こうした素材を紙に定着させる横溝さんの仕事振りには敬服するばかりです。展覧会終了後も、Readin’ Writin’ BOOKSTOREでは溝活版の名刺、ポストカード、大高さんの書籍などは引き続き販売するそうです。購入を希望される方は問い合わせしてみてください。
書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」は、久保田万太郎の生家から徒歩5分の場所だそうです。少し歩けば浅草駅なので、取材を終えたあと浅草寺界隈を少し散策しました。明治、大正、昭和、平成の時を経て、浅草の風景が様変わりしてきたことを思うと、浅草の街並みが普段と少し違って見えます。紙に定着した言葉や絵は、時代を超越して普遍の輝きを持つということでしょう。そんなことを考えながら歩きました。
では、次回をお楽しみに!
略歴
久保田万太郎
劇作家、小説家、俳人。明治22年11月7日、東京浅草田原町の袋物製造販売業の家に生まれた。慶応義塾大学文科卒業。慶大在学中に『三田文学』に小説を、『太陽』に戯曲を発表して文壇に登場。東京下町に生きる人々を哀感を込めて描き続けた。俳句はつねに余技と称したが、独自の叙情をつらぬき、戦後、俳誌『春燈』を主宰して膝下に多くの俳人を擁した。文化勲章受章。昭和38年5月6日没。
大高郁子
イラストレーター。兵庫県尼崎市生まれ。京都精華大学デザイン科卒業。著書に『久保田万太郎の履歴書』『きよしこの夜』『マジック山水図』がある。
横溝健志=溝活版
熊本市生まれ。武蔵野美術学校 工芸工業デザイン科卒業。母校で教員を務める。昭和40年プライベートプレス《溝活版》を開始。著書に『活字惜別』(共著)『写真集・思い出牛乳箱』など。