生田信一(ファーインク)
市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(3)
市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」の見学レポートの最終回です。時代は、先の太平洋戦争前後の時期から、戦後の復興の時期にまでさかのぼります。戦時体制により物資が不足し、当時の新聞紙面はどんどん小さくなり、最終的にはタブロイド版の表裏のみのという形態にまで縮小されました。
戦後、新聞紙面は新しい制度が導入され、活字のリニューアルが実施されます。また、戦後の急速に高まる印刷需要に応えるように、活字の製造方法に革命が起きます。金属活字の母型を機械で彫刻するベントン彫刻機の国産化がスタートし、全国に急速に広まります。
活字の母型の製造が機械化されたことで、これまで柘植材や金属の素材に直接彫刻していた種字は不要になりました。さらに、文字のデザインは平面上の正像で行えるため、文字を平面上の紙の上でデザイン・設計するという技術が求められるようになりました。
今回のコラムは、戦後の印刷産業の復興の様子を、当時の新聞社の事例を紹介しながら解説していきたいと思います。
朝日新聞社の資料
最初に、新聞社の印刷事情を見ていきます。日刊紙であれば、日々のニュースを取材し、原稿を起こし、紙面に文字や写真をレイアウトし、印刷が出来上がると全国に届けます。テレビがない時代には、情報を発信する一大メディアであり、社会的な影響も大きかったと思われます。
まず、朝日新聞社の展示資料を見ていきましょう(写真1)。以下は展示パネルからからの引用です。
「朝日新聞社
1879(明治12)年、大阪で「朝日新聞」を創刊します。1888(明治21)年には東京に進出し、「めさまし新聞」を買収、「東京朝日新聞」に改題して発行を開始します。東京版創刊に伴い大阪版は「大阪朝日新聞」と改題しましたが、1940(昭和15)年に「朝日新聞」に統一されました。戦中に印刷用紙が統制され、より多くの文字数を印刷するために、正方形の活字の天地を縮めた「扁平(へんぺい)活字」を開発、1941(昭和16)年から紙面に導入しました。」
戦時中の物資不足により、新聞紙面は縮小をせまられる事態になります。展示会場で配られた「活字の種を作った人々」の冊子では、以下のように解説されていました。
「たとえば毎日新聞(昭和18年に改称)は、終戦前後の昭和19年11月11日〜昭和25(1950)年12月31日には、朝刊はタブロイドサイズの1枚ペラ両面刷りのみとなっていました。このなかに情報を詰め込むため、本文明朝活字は縦7.93mm×横2.51mmと、いまの私たちが見ると驚くような小ささでした。活字のサイズが変わるつど、その種字を彫刻師が手彫りし、新しい母型をつくりました。
やがて昭和20(1945)年に戦争が終わり、資材不足が落ち着きを見せると同時に、戦時中に米粒なみに小さくなってしまった新聞活字を再び大きくしようという動きが起こります。「新15段制」の導入です。」
扁平活字は新聞の本文書体に採用されている独特な書体です。文字に80〜90%の平体圧縮(垂直方向に圧縮した変形)をかけることで、限られた紙面に掲載する情報量を増やすことができるメリットがあります。これには、戦時中、物資統制が強化され、限られた紙⾯にたくさんの⽂字を組まなくてはならない事情がありました。近年は、読者層の高齢化に伴い、文字サイズが大きくなり、扁平比率も正体に向かっていく動きもあるようです。
朝日新聞社の種字彫刻師として活躍されたのが太佐源三です(写真2)。以下、解説パネルからの引用です。
「太佐源三 (1897-1988)
1897(明治30)年、東京生まれ。父親のもとで種字彫刻を始めます。1940(昭和15)年から1953(昭和28)年にかけ朝日新聞社に在籍、種字彫刻を手掛け、ベントン彫刻機を導入後は原図制作にも携わります。定年後はモトヤで活字書体のデザインを担い後進を育成しました。」
また、書体設計士の橋本和夫さんのインタビューが併記され、太佐さんの人柄を伝えています(橋本和夫さんは、1954(昭和29)年、大阪のモトヤ商店(現・モトヤ)に入社。太佐源三のもと、ベントン彫刻機用原字制作に従事されていました)。
「太佐さんは、そのころの人にしては職人さん風じゃないんです。スーツで会社に来たり、お弁当にサンドウィッチを作ってきたり、ダンディな人でした。声楽をされていて、お昼休みにイタリア語で歌ってくれるんです。
僕の書体の先生は、太佐さんと石井茂吉さんですけれど、理路整然と言葉で教えてくれたのが太佐さん、「見て覚えろ」という職人風が石井さんでした。だから太佐さんは本当に先進の人、明治の人なのに令和の人なんですよ。」(2023(令和5)年5月25日インタビューより)
当時の種時彫刻師は、職人として親方のもとで修行することが多かったのですが、親方により弟子の育て方もさまざまなようです。太佐さんのように文字のデザインの基本を理路整然と教えてくれた方というのは珍しかったのではないでしょうか。
毎日新聞社の資料
毎日新聞社について、解説パネルより引用します(写真3)。
「毎日新聞社
1872(明治5)年に、東京で最初の日刊新聞「東京日日新聞」として創刊。1911(明治44)年に大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併し、1943(昭和18)年に両紙の題号を「毎日新聞」に統一しました。毎日新聞明朝体・ゴシック体は1994(平成6)年から一般に発売され、現在もデジタルフォントとして利用できます。」
毎日新聞社のコーナーでは、電胎母型各種が展示されていました(写真4)。
さらに、種字彫刻師として村瀬錦司さんが紹介されていました(写真5)。以下、解説パネルから引用します。
「村瀬錦司 1892〜1962
1892(明治25)年、長野生まれ。十歳から木版の修行をはじめました。印刷局での活字の改刻、ベントン彫刻機の原図制作にも従事します。1932(昭和7)年から毎日新聞社で種字彫刻を行っていましたが、ベントン彫刻機導入に伴いチーフとして原図制作を推進しました。」
毎日新聞社に勤務されていた村瀬錦司さんについては、書籍『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著)に詳しく、参考させていただきました。新聞社が当時どのように活字・新聞書体を製造・管理していたのか詳しく解説されています。
戦後まもなくして、新聞社では、新しい15段制紙面のための活字開発が進みます。1951(昭和26)年1月1日の毎日新聞の紙面では、新しい活字が導入されたことが伝えられました(写真6)。
新聞の紙面は、文字サイズの変更が繰り返し行われ、現在に至っています。文字サイズの変更は、これまで使っていた金属活字の全面リニューアルが必要になりますから、新聞社にとっては一大事業です。(参考:「60年前、紙面の大きさは|朝日新聞DIGITAL ことばマガジン」
岩田母型製造所の資料
岩田母型製造所は、1920年創業の母型・活字の製造販売会社です(写真7)。創業以来、多くの印刷会社、新聞社に活字を提供してきました。
「岩田母型製造所
1920(大正9)年創業、母型・活字の製造販売会社です。戦前は種字彫刻師や工房を4、5軒抱え、電胎母型を製造し、国内だけでなく中国や満州にも輸出していました。1950(昭和25)年にベントン彫刻機を導入し、彫刻母型の製造をスタートします。ベントン彫刻機による彫刻母型が高い評価を得て、岩田母型製造所は日本一の母型・活版メーカーとなりました。2001(平成13)年に岩田母型製造所とイワタエンジニアリングが経営統合し、イワタと改称。活字書体だった「イワタ明朝体」をデジタル化した「イワタ明朝体オールド」は現在でも書籍本文では欠かせない書体です。」
(写真8)は大間善次郎の30ポイント明朝木彫り活字です。
種字彫刻師として、大間善次郎、馬場政吉、庭田與一、清水金之助、中川原勝雄の5名が紹介されていました(写真9)。解説パネルのテキストは以下の通りです。
大間善次郎 199?〜没年不詳
もとは印鑑などの彫刻師でした。岩田母型製造所創業者、岩田百蔵にその天才的な技術を認められ、同社の種字彫刻を手がけました。特に六ポイント正楷書体は大間が彫刻した地金彫り種字から作られたとされています。1954(昭和29)年、第三回印刷文化典にて当時活躍していた種字彫刻師八名が選ばれ、大間も表彰されました。
馬場政吉 1986?〜1959?
1986(明治29)年、石川生まれか。地金彫りの名手。大森に工房をかまえ、岩田母型製造所の種字彫刻を一手に引き受けていただけでなく、中日新聞やその他の新聞社、印刷所の種字彫刻を担いました。1954(昭和29)年、第三回印刷文化典にて当時活躍していた種字彫刻師八名が選ばれ、馬場も表彰されました。
庭田與一 1916〜2006
1916(大正5)年、青森生まれ。単身で上京、馬場政吉に師事したのち、独立後青森に戻り種字彫刻師を行っていましたが、1950(昭和25)年に家族や弟子たちと上京。岩田母型製造所からの依頼が多かったそうです。1984(昭和59)年、杉並区技能功労者として表彰。その後75際まで彫刻を行っていました。
清水金之助 1922〜2011
1922(大正11)年、東京生まれ。十四歳で馬場政吉に弟子入り。1945(昭和20)年に独立、弟子を五人抱え種字彫刻を行いました。種字彫刻の減少にともないベントン彫刻機での母型彫刻に転向するも、やがて活版印刷自体が衰退し母型彫刻を廃業。2004(平成16)年から種字彫刻を再開し、実演会などで彫刻する姿を見せてくれました。
中川原勝雄 1934〜2021
1934(昭和9)年、青森生まれ。中学卒業後に庭田與一に弟子入りし、師匠とともに上京。独立後は岩田母型製造所などに活字を納めていました。1965(昭和40)年頃から、大日本印刷市谷工場で、直彫り活字(足し駒)の彫刻に従事。2003(平成15)年に大日本印刷が活版印刷を終了するまで彫刻を行いました。
(写真10)は、庭田さん、清水さんの種字彫刻の道具です。清水さんは一度種字彫刻をやめていましたが、奥さんが道具を取っておいたいたそうです。
(写真11)は、中川原勝雄さんの直彫り活字。種字彫刻の需要が減少してからは、中川原勝雄さんは、活字を直接彫刻する「直彫り(足し駒)」の作業を行っていました。原稿に特殊な文字があった際に、その場で彫刻していました。
今回のコラム執筆で参考になった電子書籍『活字地金彫刻師・清水金之助: かつて活字は人の手によって彫られていた』(雪朱里著、ボイジャー・プレス)を紹介します。本書は、当時クラウドファンディングで出資者を募り、金属活字で組版し、活版印刷で刷られました。紙版の書籍は現在では入手できませんが、電子版で読むことができます。電子版では冒頭のカラーの口絵が見どころになっています。清水さんの魅力的な語り口をそのままに、聞き書きをまとめており、楽しく拝読させていただきました。
3回にわたって、市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」をレポートさせていただきました。いかがだったでしょうか。活版印刷のこれまであまり知られていなかった人物や技術に焦点を当てた展示は見応えがあり、資料の収集や整理も大変だったと思われます。本展の開催に尽力していただいたスタッフの方に厚くお礼申し上げます。
では、次回をお楽しみに!
市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」
企画展「活字の種を作った人々」:https://ichigaya-letterpress.jp/gallery/000345.html
会期:2023年11月03日(金)~2024年06月02日(日)
住所:162-8001 東京都新宿区市谷加賀町1-1-1
電話:03-6386-0555
開館時間:10:00~18:00
休館:月曜・火曜(祝日の場合は開館)、年末年始
入場無料
※平日:予約制、土日祝:予約不要