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平和紙業株式会社
紙の記念日

ほとんどのメディアで取り上げられることはありませんでしたが、12月16日は、「紙の記念日」でした。
もっとも紙に関わる人達も、多分ご存じないことなので、メディアが取り上げるわけもなく、粛々と当日を迎えることとなりました。
「紙の記念日」は、1875年に渋沢栄一が、東京近郊の王子村に、近代製紙業の礎となる、抄紙会社を設立し、操業を始めた日とされています(写真1)。
つまり、今年で150回目の記念すべき日でもあったわけです。
この王子村に作られた抄紙会社が、今の王子製紙になっていることも、多くの方はご存じありません(写真2)。

写真1 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真1)渋沢栄一により設立された、抄紙会社の創業式典の様子です。
後の『王子製紙』となる『抄紙会社』は、1873年創立、1875年に開業しました。
開業日は12月16日で、今年で150年目を迎えます。

写真2 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真2)王子にある飛鳥山から望む抄紙会社の様子です。
飛鳥山は江戸時代より桜の名所と親しまれており、その桜の様子と、左奥には三角屋根の抄紙工場を見ることができます。

大政奉還が、1867年、明治政府が発足したのが1868年ですから、そのわずか7~8年後の事でもあります。
日本が近代化を目指す中、紙の量産化は必要不可欠なものでした。明治政府の政策の中で、鉄道敷設や郵便制度の整備など、政府主導で産業を育成する殖産興業が進められ、また新聞の発行、小学校の義務化、地租改正などが行われたこともあり、紙の需要が増加することとなりました。そのため、それまでの一枚一枚を手漉きで作る紙(和紙)では、需要に追い付かなくなることを見越し、海外から機械を取寄せ、国産での紙作りが急務でもありました(写真3、4)。
1875年当時、渋沢栄一の創業した抄紙会社の他にも3社の製紙工場が立ち上がり、それぞれ海外から抄紙機械を取寄せ、この4社が、それぞれ1台ずつ抄紙機を持ち、稼働させていました。

写真3 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真3)

写真4 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真4)
(写真3、4)明治政府の政策の中で、土地を個人で所有できる地租改正が行われ、土地の所有者を明確にする「地券」が発行されました。
また、学制によって、教育が義務化されたことで、教科書が登場します。当時は海外から紙を輸入して対応していましたが、紙の国産化が急務となってきました。

渋沢栄一は、イギリスから抄紙機械を取寄せ、王子村に設立した「抄紙会社」で紙作りを始めますが、この当時はまだ、木材パルプが発明される前で、原料の多くは、綿ボロなどを回収し、選別し、苛性ソーダで蒸煮、さらに漂白してパルプとしていました。原料の綿ボロなどを手に入れるため、工場は大都市の近郊に作らざるを得なかったようです。

当然ながら、当初は原料の入手にも苦労し、且つ機械の取り扱いなども試行錯誤を繰り返していました。一日の生産量は、4社合計で、年間で20tほどだったと言います。今の大型抄紙機の1日の生産量の5~10分の1くらいです。

また、現代の様に電気やガスなどのインフラ整備もされていません。当時の工場には当然ながら電灯も無く、夜間操業もできませんでした。官営の富岡製糸場などは、太陽光を多く取り込むため、大きなガラス窓が設置されています(写真5)。
最初に銀座に電灯が設置されたのが、1882年のことですし、水力発電の大型化、電力網の整備が進むのは、1912年以降のことです。当時の工場内の動力は、主に蒸気機関によるもので、抄紙機のエンジンなどもこの動力を利用していたようです。

写真5 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真5)1872年に開業した官営の富岡製糸工場。
抄紙会社と同じ時期に操業を始めています。当時は電気が無いため、電灯も無く、夜間操業はできませんでした。
そのため日中の光を多く取り込むため、大きなガラス窓が設けられています。

抄紙会社は、こうした状況の中、紙の量産化に向けて操業を続けます。1890年にはグラウンドパルプ(砕木パルプ・機械パルプ)が開発され、木材パルプを使用した抄紙が行われるようになります。
グラウンドパルプの登場により、紙の生産量は、全国で、年間6,700トンにまで増加することになります。
この頃になると、国内に8つの工場、10台の抄紙機が稼働することになりました。

1925年には、現在も紙を抄く原料でもある、クラフトパルプ(化学パルプ)が使われるようになり、抄紙は飛躍的に発展します。

紙の需要が増加する中、日本各地に製紙メーカーができ、それぞれ特徴のある紙作りが始まりました。
1893年に抄紙会社は、王子製紙に社名を変更し、1933年に富士製紙、樺太製紙を吸収合併することで、巨大製紙企業へと躍進します。
しかし、第二次大戦終戦後、財閥解体により、1949年に王子製紙は、苫小牧製紙、本州製紙、十條製紙の三つの会社に分かれます。

苫小牧製紙はその後王子製紙工業として、現在の王子製紙の母体となり、その後も吸収・合併を繰り返し、現在の王子製紙(王子ホールディングス)になります。
また、十條製紙も、その後吸収・合併を繰り返し、現在の日本製紙へと継承されます(写真6)。

写真6 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真6)渋沢栄一が設立した抄紙会社から、現在までの流れです。吸収・合併、解体など経て現在の2大メーカーが誕生しました。

日本の中で2大製紙メーカーでもある、王子製紙と日本製紙ですが、元を辿れば、渋沢栄一の興した抄紙会社が起源と言えます。
高度成長期には、各メーカーは大型の抄紙機を導入し、大量生産によるコストダウンを図るようになり、また各々のメーカーが独自の技術で、品質的にも安定した紙を生産できるようになりました。

時代は進み、情報伝達ツールとしての紙の役割は、徐々に電子メディアにその役割を譲りつつあります。紙媒体が、電子ツールに置き換わり、ペーパーレスに移行しています。
これから50年後、紙の記念日が、200周年を迎える頃、紙媒体と電子メディアがどのように折り合いをつけているのでしょうか。

写真1 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真1)渋沢栄一により設立された、抄紙会社の創業式典の様子です。
後の『王子製紙』となる『抄紙会社』は、1873年創立、1875年に開業しました。
開業日は12月16日で、今年で150年目を迎えます。

写真2 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真2)王子にある飛鳥山から望む抄紙会社の様子です。
飛鳥山は江戸時代より桜の名所と親しまれており、その桜の様子と、左奥には三角屋根の抄紙工場を見ることができます。

写真3 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真3)

写真4 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真4)
(写真3、4)明治政府の政策の中で、土地を個人で所有できる地租改正が行われ、土地の所有者を明確にする「地券」が発行されました。
また、学制によって、教育が義務化されたことで、教科書が登場します。当時は海外から紙を輸入して対応していましたが、紙の国産化が急務となってきました。

写真5 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真5)1872年に開業した官営の富岡製糸工場。
抄紙会社と同じ時期に操業を始めています。当時は電気が無いため、電灯も無く、夜間操業はできませんでした。
そのため日中の光を多く取り込むため、大きなガラス窓が設けられています。

写真6 | 紙の記念日 - 平和紙業株式会社 | 活版印刷研究所

(写真6)渋沢栄一が設立した抄紙会社から、現在までの流れです。吸収・合併、解体など経て現在の2大メーカーが誕生しました。