紙ノ余白
紙ノ余白と石州和紙の出会い
初めまして。
京都で活動をしている「紙ノ余白」と申します。
その活動の内容は後々させていただく、として
「紙ノ余白」の核にある「手漉き和紙」のあれこれを今回より綴らせていただきます。
私は関西のごく普通の家庭で育ちました。
つまり、和紙という言葉にある「伝統」というニュアンスは私の血の中にも、私の意識の中にもありません。
縁あって和紙と関わり、今に至っています。
平成に変わろうかとした時代に生まれ
平成29年に居る自分と古来より受け継がれている和紙。
そのリアリティのまま和紙に触れ、伝えたいと思っています。
でも、なぜ和紙が好きなのか?と問われる時、
和紙の何がそんなに良いの?と尋ねられる時、
正直とても困ります。
理由が言葉にならないのです。
ただ29歳の冬、手漉き和紙を学べるなら、日本のどこにでも行く。住む。
それが、雪国の真ん中であれ、北の果てであれ。
と思ったことは今でも鮮明に覚えています。
そして、私は京都から島根県に移住しました。
聞き慣れない「浜田市」という場所が一体どんな所だろうと、
航空地図を見ると、一帯が緑色。そのすぐ側は荒々しい日本海の画像。
そうか、なるほど。
と、京都のアパートの荷物をとにかく出して、住まいがまだ決まらぬうちに夜行バスで島根へ旅立ちました。
そこで出会った和紙について数回に分けてご紹介したいと思います。
「石州和紙」
「セキシュウ」と読みます。
山口県にほど近い島根県西部にある浜田市三隅町で漉かれる和紙です。
三隅町には現在4件の紙漉き工房と新たに活動を始めた工房が1件あります。
紙漉きの産地の中で、石州和紙の際立った特徴として最たることは、
原料となる楮を地元で栽培していることです。
紙漉の世界では、栽培をしている専業化した農家から、または、海外からある程度処理をした原料を仕入れることが多くある中、
石州では漉き手が自ら畑を持ち、自ら手入れをし、地元の農家の方も楮畑を持っています。
それは、石州では昔、冬季に農業の副業で紙漉きが行われていたことと関係があるようです。
専門職ではなく、ごく当たり前の日常として、地元の方々が和紙を漉いている。その風景がすんなり想像できるほど今でもその空気感は残っています。それは石州和紙が現代でも伝統の技法の素朴さを強く残す要因でもあります。
石州の紙漉きは、楮が紙になる過程がダイレクトな故に、楮の発育状態や質がそのままその年の和紙の質を左右することとなります。
漉き手が原料を育てるということは、もうそこから紙漉きが始まっているのです。
楮は1年で約2メートル成長し、年に1回収穫をすることができます。
冬に株を残して根元近くから幹を刈り採ると、次の冬にはまたその株から天に向かって育った幹が刈り採れるのです。
楮は、自然のままですと、わき芽が出て幹から枝別れをしますが、初夏から出始めるわき芽を丁寧にひとつづつ手で摘んで手入れすると、地から天へ向かってまっすぐ伸びます。
そして和紙となるその樹皮の繊維も同じく地から天へ垂直方向へ長いため、
楮紙は繊維が長い、という特徴があります。
長い繊維が交差すると、隙間が生じるため、繊維密度は荒くなります。
墨で書くとその長い繊維が墨を吸い、滲みが生じます。
楮とは別の、三椏(ミツマタ)という樹木は名前のごとく三方向に次々と枝別れして成長するので、
樹皮の繊維は短くなります。三椏紙の繊維は密度が緻密で、光沢があり、書くという行為に適った和紙となります。
和紙と聞いて、皆さんの多くが思い浮かばれる和紙と、
石州和紙は、おそらく大きく違っていると思います。
私もまた、初めて見た時は衝撃を受けました。
その理由について次回書こうと思います。