図書館資料保存ワークショップ
[図書館に修復室をツクろう!]96
「婦人閲覧室」ってご存知でした?
かつて明治時代から昭和戦前期まで一般に公開されていた公立私立図書館に「婦人閲覧室」なる部屋があったのをご存知でしょうか?恥ずかしながら筆者は大学図書館で30数年働いた元図書館職員でありながら、このような部屋が図書館に設けられていたことを知りませんでした。
「婦人閲覧室」を知ることになったのは『女性と図書館』(青木玲子・赤瀬美穂著 日外アソシエーツ 2024年刊)という本との出会いでした。
著者たちは二人とも国際的にジェンダー情報サービスの提供やジェンダー研究の分野で活躍して来られた図書館員であり、研究者です。
この本の“はじめに”には、“これまで多くの図書館史に婦人閲覧室があったことは明記され、長期間存続されたことも確認しているが、女性たちがどのように利用し、何を読んだのかの詳細は不明である。”とあります。
が、筆者のように元図書館員であった者でも「婦人閲覧室」の存在や、明治時代から昭和戦前期、女性たちの図書館利用がどのようなものだったかは、現在では、そんなに知られていないように思われます。
この本をもとに、婦人閲覧室とはどんなものか、明治時代から昭和戦前期の女性たちはどのように図書館を利用していたかの一端を知りたいと思います。
明治・大正・昭和戦前期のある程度の規模の図書館には、普通閲覧室、特別閲覧室、婦人閲覧室、児童室、新聞雑誌閲覧室があった。普通閲覧室は男性が利用する閲覧室、女性が利用する部屋は婦人閲覧室とされている。
実際、石川県立、富山県立、岐阜県立、徳島県立、前橋市立などの図書館では、婦人は“所定の閲覧室以外では閲覧してはいけない”と閲覧規則にあり、三重県立、市立名古屋図書館、彦根市立図書館は、より明確に婦人は婦人閲覧室で閲覧すべきと閲覧室の名称を挙げて指定している。
婦人閲覧室は普通閲覧室とは異なる。つまり、婦人の利用は、普通ではない。ということになる。
その状況は第一に「狭い」。たとえば、“京都府立図書館は男性用の大閲覧室が二五十席に対して婦人閲覧室は二十席”であった。この狭さ故に利用勝手が悪く、女性の利用者は少なく、閲覧席を増やして欲しい等の要求が出ることもなく、改善されないままという悪循環に陥っていたのかもしれない。
公的な「婦人閲覧室」設置の位置づけとしては、1899(明治32)年の「図書館令」[図書館設置に関する法律]、日本図書館協会が1915(大正4)年に刊行した『図書館小識』にある程度の規模の図書館に必要な施設として記載がある。
このように「婦人閲覧室」が設けられた時代の社会では「男女七歳にして席を同じうせず」という考えや、女性は家庭内で良妻賢母であることが期待されていた事情があるのではないか。明治時代、女性がひとりで出歩くことや、読書することも非常に勇気のいる時代だった。
この本に掲載されている「婦人閲覧室があった図書館一覧」では「婦人閲覧室」は明治期から戦後、最長では1974年まで存続した。戦後女性が選挙権を持つようになってもなぜ、このように長期に渡ってあり続けたのだろうか?
昭和43(1968)年新館なった神戸市立図書館に婦人閲覧室があり、婦人閲覧室を設置した目的には「もっと別の見方、たとえば風紀的な事ではなかったかと、私は当時を振り返って感じております」とかつての館員伊藤昭治の証言もある。
また、“千代田区立千代田図書館は、昭和30(1955)年の開設以来、戦前の男女別の閲覧室のスタイルを踏襲して、都内の公立図書館で唯一男女別の学生閲覧室を設置していた。一九八五年には、利用者に男女区別の見直しを提案したが、現状肯定の意見が多く存続が決まっている。”[ホームページによれば、現在はこの閲覧室は無いようです。]
婦人閲覧室についての結論として、著者たちは“日本の図書館の婦人閲覧室は、基本的に図書館における女性への性差別を認識されず、その存在意義について、十分議論されずに存続した”としています。
写真1『女性と図書館』表紙の写真は“「婦人閲覧室」山口県立山口図書館所蔵」”を
写真2 山口県立山口図書館平面図は、『女性と図書館』35頁掲載の“山口県立山口図書館所蔵資料『山口県立山口図書館100年のあゆみ』”より転載させていただきました。
女性利用者への事実上の利用制限もありました。
①利用時間の制限
*茨木県立図書館では明治39(1906)年時、4月~9月は午前8時~午後9時まで開館のところ“女子に対しては午後6時まで”
*和歌山県立図書館は“婦人の閲覧時限は点灯時前までとす”(大正時代)
*帝国図書館は女性も夜間の閲覧ができたようだが、暗くなってから帰路の災難を心配して婦人の夜間閲覧を廃止しようかと検討されたが、“反って男の方が危険な程の豪華美人ばかりなのでその必要はあるまいと沙汰やみになった”[意味不明?筆者注](大正元(1912)年の読売新聞)
*一方で大正4(1915)年、県立熊本図書館は“婦人の夜間閲覧を開始”
*大正5(1916)年、女学生の利用が多い大橋図書館では、“燈が点いても九時頃までは熱心に勉強です。”
などが紹介されています。
②制限ではないが、女性にために用意された資料
*明治39(1906)年、新聞記事で、田中稲城帝国図書館長は女学生の読み物として“内務省の命令で青年子女の読んで悪い書籍は断然貸し出さぬ事にして置く…近頃出版の小説などでも悪いものは悉く取り締まって見せぬが多い、そのために近頃小説や文芸書専門の検閲係りが館員として一人入れられた” “また、帝国図書館では当時女性の利用者が非常に増えており、たいていは女学生であり、家政や文学書を借り出していると続けている。”と語っている。
*明治42(1909)年東京市立深川図書館では“図書館長が新聞社のインタビューに、「家庭に関する書籍はなるべく網羅したい考えです」と述べている”
*昭和4(1929)年“東京市立京橋図書館では、「家庭のご婦人方にも利用をお進めいたしたく」として「出産、育児、看護、料理、裁縫、手芸、洗濯及び衣服整理、衛生、貸借、利殖、更に細かく申せば、お子様に与えられる図書の選擇、入学させる学校の調べ」”などについて図書館のレファレンスサービスの利用を薦めている。
図書館側は、男女の区別なく本を提供することが図書館サービスの原則であることは承知しながらも、実際のサービスでは、当時の社会通念である「男は仕事、女は家庭」に留まっていたと思われます。
しかし、大正12(1924)年の関東大震災や第二次世界大戦の日本の敗戦後、激動の社会へ女性も出て行かざる時代になると、図書館への利用要求も変化して行きます。
この著作を書かれる際、婦人閲覧室について、県や市の五十年史、百年史などの周年史の図書館部分を調査し、設置年と廃止年、閲覧室の名称、男女閲覧室の座席数または面積比、平面図や写真の有無などを一覧表にまとめています。(p.29~30)
この著作には、女性利用者に関することの外、そこで働く女性図書館員の明治時代から昭和戦前期の職業事情に関しても触れ、1999年の「男女共同参画社会基本法」制定後男女ともに利用する施設となった男女共同参画センター・ライブラリーやネットワークの紹介、未来への国際的なジェンダー情報の共有などの課題提起も記されています。
このようなジェンダー情報事業を担う機関として国立女性教育会館(NWEC, ヌエック)があり、「女性アーカイブセンター」活動の一環として、活動の記録を保存し、将来に伝えるアーカイブの保存や整理についての研修、「アーカイブ保存修復研修」も実施している。との紹介も。
図書館で長年働いて、退職後も図書や資料の保存や修理・修復をなんとか図書館の正式な業務にしたいと同じ思いの仲間とワークショップ活動をしています。
女性が多く働く図書館では職業上のジェンダー問題には絶えず直面するのですが、この本に出会って図書館利用者のジェンダー問題を初めて意識しました。「誰でも無料で平等に利用できる」のが公共図書館の原則です。
今日では当たり前のことが日本の明治時代から昭和戦前期では、決してそうではなかったことを各図書館の周年記念誌、古い図書館の利用規則、目録など、まだまだアーカイブ化されていない紙資料での調査や、各図書館への訪問調査など、著者の方々のご苦労を思いました。
わたしたちの「図書館資料を将来へ伝える」活動にも励みになります。
図書館資料保存ワークショップ
M.T.