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京都大学図書館資料保存ワークショップ
[図書館に修復室をツクろう!]66
ロシアのウクライナ侵攻の今、図書館は?
そしてある書物の物語

報道などで見たり聞いたりする「21世紀の現代で、他国が攻め込んで来て国土を武力で拡張し、一般市民が殺される、など現実と思えない。」という言葉。全く同じ思いです。

国内外の図書館も声明を発したりしています。それらは国立国会図書館のカレントアウェアネスという図書館に関する情報ポータルサイトで知ることができます。

日本図書館協会は2022年3月14日付けで「ウクライナに関する日本図書館協会声明」を出しました。そこでは、“日本図書館協会は、国際図書館連盟(IFLA)など国際的な図書館界と協調し、すべての暴力行為に反対し、ウクライナの人びとや図書館関係者との連帯を表明します。略・・・日本図書館協会は、ウクライナの人びとが安全な日常を取り戻すことを願い、会員の図書館や図書館員に対して、ウクライナの人びとへの可能な支援を呼びかけます。”と表明しました。

また一方、ウクライナ図書館協会は2月28日、IFLA はじめ国内外の図書館関係者に戦争の脅威下における図書館サービスの重要性を説いた呼びかけをウェブサイトに発表し、3月21日にはIFLAに宛ててロシアの図書館と関係を断つように求める声明を出すに至っています。

国際図書館連盟(IFLA)の対応は、ロシアの会員をIFLAから除名しない。あわせて状況が平和に解決するまで、ロシアで開催されるオンライン・オンサイトのイベントにIFLAは参加しないことを決定しています。

またこのIFLA発表の中では、ウクライナへの連帯や即時停戦の要求を表明し、表現の自由、情報へのアクセス、多様性・包摂性の重要視の価値は世界中の図書館員・情報専門家で共有されており、国籍を理由に図書館・図書館員を除外して孤立させたりはできないと述べています。

そんな国際状況を見たり聞いたりしていても、ありがたいことに変わらぬ日常生活のなかで、ある一冊の本を読みました。

『古書の来歴』、原題はPeople of the Book、著者はジェラルディン・ブルックス、訳者は森嶋マリ、2010年にランダムハウス講談社から出版されています。

この本は『サラエボ・ハガダー』として知られるヘブライ語の実在する書物に着想を得たフィクションです。

「ハガダー」とはユダヤ教の重要な祭事である「過越しの祭(すぎこしのまつり)」の夜読み上げられる書物で、本来偶像崇拝を禁ずるユダヤ教の教えから、あらゆる装画が禁じられています。

『サラエボ・ハガダー』は現在ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館に所蔵されています。博物館の解説によりますと、羊皮紙の葉142枚で構成され、103葉には人や動物の匠な細密画が描かれています。サイズは16.5㎝x22.8㎝で、漂白された子牛の皮で装丁されている。写真はその中の1葉。記されている言語と挿入されている細密画から、14世紀半ばのスペイン、旧アラゴン王国、キリスト教が統治する土地、おそらくバルセロナで1350年ころ作られたとされています。

その後、1492年のレコンキスタ(キリスト教国家によるイスラム教勢力からのイベリア島再征服活動)の後はユダヤ人によって持ち出され、16世紀にはイタリアに存在したことが分かっています。

1894年『サラエボ・ハガダー』は困窮したユダヤ人一家によってサラエボ博物館に売却されます。その当時ボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国の領地でした。この「ハガダー」は研究と修復のために、その当時文化と学問の中心であったウィーンへ送られたと考えられ、その存在が広く知られます。その結果、それまでの「ハガダー」には挿絵はありえないという通説が覆り、美術史の教科書が書き換えられたといわれます。

第二次大戦中はナチス・ドイツによる没収の危機にもさらされます。1941年、イスラム社会の高名な学者デルヴィシュ・コルクトは、ナチス・ドイツの将官ヨハン・ハンス・フォルトナーの目と鼻の先で、博物館からその本をこっそり持ち出して、山のなかのモスクにもっていき、第二次世界大戦が終わるまでそこに隠しておきます。

時を経て1992年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でサラエボが包囲され、博物館や図書館が戦闘の標的にされると『サラエボ・ハガダー』の行方はわからなくなります。

ここまでの経過をみると、ユダヤ教の重要な書物でありながら、その危機を幾度もイスラム教徒やムスリムの学者によって、生き延びてきました。

ここからはジャーナリストでもある『古書の来歴』の著者の「あとがき」により現実の時間経過を追います。

紛争が1996年に終わるとイスラム教徒の学芸員エンヴェル・イマモヴィッチが、この本を救い出して銀行の金庫室に隠したことが明らかになります。

著者はこの小説を書くにあたって、ナチスからこの本を守ったデルヴィシュ・コルクトの夫人セルウェト・コルクトさんに何時間も話しを聞いて取材しています。

現実のサラエボの学芸員にも言及し、そのひとりアイーダ・ブトゥロヴィッチはサラエボの燃え上がる図書館から命がけで蔵書を救った。カマル・バカルシッチは危険を顧みず、危機に瀕した蔵書を幾晩もかけて安全な場所に移した。と記しています。

このような事実に拠って著者はフィクション『古書の来歴』を書く着想を得たようです。

さて、小説『古書の来歴』のお話です。実際の『サラエボ・ハガダー』の歴史を現代から遡るかたちで話が進んでゆきます。ネタバレにならないように、あらすじを紹介しましょう。

主人公は古書の修復家オーストラリア人の女性ハンナ・ヒース。1996年ハンナは銀行の金庫室で『サラエボ・ハガダー』の状態を調べ、必要な修復作業を行うため、サラエボに飛びます。『サラエボ・ハガダー』の状態の描写、ハンナの保存修復についての考え方、修復に使用する紙や糊などに関して、私たち本の修理・修復に関心を持つ者はこの最初の章に心をつかまれてしまいます。

羊皮紙の専門家であるアンナは修復作業と同時に使用されている羊皮紙、顔料、金箔の状態などを克明に記録し、一葉一葉写真に収めます。その過程で「半透明で翅脈のある昆虫の羽」、「綴じ糸に付着していた長さ1㎝ほどの白い毛」、「ある1頁に付着していた染みのサンプル」、「羊皮紙から検出された塩の結晶」を採取します。これらをキーにして話は、この書物が作成された1480年のセビリアへと遡って行きます。

「半透明で翅脈のある昆虫の羽」は1940年ナチス占領下のサラエボが舞台、「ある1頁に付着していた染みのサンプル」は1609年ヴェネツィアのキリスト教異端審問官を巡って、「羊皮紙から検出された塩の結晶」は1492年レコンキスタ下のスペイン、タラゴナでのユダヤ教徒、キリスト教徒の製本師や書家が主人公。レコンキスタまではユダヤ教徒もキリスト教徒もお互いを認め合って共生してきたのに、以後はキリスト教徒以外の人々への迫害が始まります。

1480年セビリア、ここで、いよいよ「綴じ糸に付着していた長さ1㎝ほどの白い毛」と『サラエボ・ハガダー』成立の謎が明かされます。

この小説の舞台は、スペインをも含む、ヨーロッパ全域、時代も中世から現代にわたり、扱っているのは、「ハガダー」という、まったく馴染みのない宗教書、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教と身近とは程遠い宗教も絡んできます。しかし、一冊の謎を孕む書物を対立する宗教を奉ずるイスラム教徒が、キリスト教徒が、ムスリム学者や学芸員たちが命を賭してユダヤ教の宗教書守る。その物語に胸を打たれます。

戦争が続くウクライナでも、ロシアでも図書館員、学芸員たちはこの状況をどのように潜り抜けているのでしょう?『サラエボ・ハガダー』の物語と重ね合わせて思わざるを得ません。

それにしても、書物の持つ力、そしてそれを守り伝える人間の力に励まされる小説でした。

一日でも早く、ウクライナ、ロシアの世界中の図書館、博物館、美術館が自由に利用でき、利用を提供できる日が来ますように。

資料保存ワークショップ
M.T.

写真1 | ロシアのウクライナ侵攻の今、図書館は?そしてある書物の物語 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真1)ヴェルナツキー・ウクライナ国立図書館
ウィッキペディアより

写真2 | ロシアのウクライナ侵攻の今、図書館は?そしてある書物の物語 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真2)サラエボ・ハガダーの1ページ
https://www.zemaljskimuzej.ba/en よりボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館所蔵

写真3 | ロシアのウクライナ侵攻の今、図書館は?そしてある書物の物語 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真3)『古書の来歴』

写真1 | ロシアのウクライナ侵攻の今、図書館は?そしてある書物の物語 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真1)ヴェルナツキー・ウクライナ国立図書館
ウィッキペディアより

写真2 | ロシアのウクライナ侵攻の今、図書館は?そしてある書物の物語 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真2)サラエボ・ハガダーの1ページ
https://www.zemaljskimuzej.ba/enより
ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館所蔵

写真3 | ロシアのウクライナ侵攻の今、図書館は?そしてある書物の物語 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真3)『古書の来歴』