生田信一(ファー・インク)
手作り製本の魅力
──絵本「うさぎまでのおさらい」ができるまで
今回紹介するのは、「うさぎまでのおさらい」(絵と文:井上奈奈)という絵本の製作プロセスです。この絵本は、東京都杉並区桃井(最寄駅は荻窪駅)の書店Titleで行われた、井上奈奈さんの個展「うさぎ、くま、わたし、泣く」(2017年4月6日〜23日開催)で展示・販売する目的で作られました。この絵本は、2016年11月に刊行された「くままでのおさらい」(絵と文:井上奈奈)のサイドストーリーとして企画されました。
昨年の秋に刊行された「くままでのおさらい」は、2種類のタイプが入手できます。ひとつはリソグラフ(デジタル孔版)印刷を用い、美篶堂さんが製本を手がけた特装版。もうひとつは、オフセット印刷、ソフトカバー仕様のハンディ版です。
私は、リソグラフ印刷の手製本特装版の「くままでのおさらい」を最初見たとき、強い衝撃を受けました。井上奈奈さんの魅力的な絵と、リソグラフ印刷の独特な効果が融合して、すばらしい出来栄えの絵本に仕上がっています。製本も凝っていて、手元に置いておきたいと強く思いました。
私は、2017年3月頃、個展会場限定で販売される新作の絵本「うさぎまでのおさらい」は、リソグラフ印刷で、さらに手作り製本で進められているとのニュースを聞き、強く興味を持ち、荻窪の書店Titleで行われたトークイベント「本を作るということ」に参加しました。ギャラリーでは、絵本の原画が展示され、さらにトークイベントでは、製作に関わった方々のお話を聞くこともできました。とても印象に残るイベントでした。
今回のコラムは、印刷を手がけられた中野活版印刷店を訪問し、店主の中野好雄さんにお話をうかがいました。また、「くままでのおさらい」や「うさぎまでのおさらい」の絵本をプロデュースされたビーナイスの杉田 龍彦さんにもお話をお聞きしました。絵本の著者の井上奈奈さん、製本を監修された空想製本屋の本間あずささんのお話も交えてお伝えします。
「うさぎ、くま、わたし、泣く」展で絵本の原画に触れる
荻窪の書店Titleの2階のギャラリーでは、「うさぎまでのおさらい」や「くままでのおさらい」の原画やリソグラフ印刷の作品が展示されていました(写真4〜5)。
「うさぎまでのおさらい」の本文ページは2色または3色刷りですが、原画はすべてモノクロの強い濃淡のタッチで仕上げられています(写真6〜8)。作者の井上奈奈さんにお話を伺ったところ、「原画は版を分けて制作しています。納得のいくまで、何度も描き直しました」と説明してくれました。
通常のカラー印刷では、カラー原稿を仕上げてから色分解を行うのですが、印刷の版や特性を意識しながら、モノクロ原稿を描き起こすとのことで、ちょっと驚きました。
印刷工程では、モノクロの絵が黄、灰、朱の3色で刷り分けられます。リソグラフの印刷特性を考慮して、色同士がなるべく重ならないように絵柄が構成されていることがうかがえます。色同士が重なる場合は下地の色の影響を受けるため、刷る順番を計画しながら画面を構成する必要があります。
井上さんご自身のFacebookでは、制作時の様子が次のように語られていました。「うさぎの絵(写真9)、墨1色だと「剛毛うさぎ!」と思われるかもしれませんが、本番ではこちらの版は二版に分けられ、体の部分は薄いグレーを指定し、フワフワうさぎに仕上がる予定。そしてお目々は朱。特殊な印刷方法を採用する時、刷り上がりを想像しながら制作を進めるのも楽しみの一つです」
リソグラフ印刷と活版印刷
絵本「くままでのおさらい(手製本特装版)」や「うさぎまでのおさらい」で使われた印刷機は理想科学工業のリソグラフ、MEシリーズです。2色刷りの印刷物を一度に印刷することができ、コストも低く抑えることができることから、若い人の間で人気が高まっています。このプリンタの魅力は、孔版でインクが紙に転写する仕組みなので、ベタ面のカラーが鮮明に表れることです。カラーは調合された特色を利用するので、シルクスクリーンのような鮮やかで力強い発色が得られます。中野活版印刷店の中野好雄さんは、リソグラフ印刷について次のように説明してくれました。
「当店では、リソグラフ印刷用の用紙として、A4、B4、A3サイズの白上質、わら半紙、クラフト紙、A3サイズのキャピタルラップ紙を常備しています。ほかの種類の用紙はテストプリントが必要ですが、お客様が用紙を持ち込んでプリントしていただくこともできます。インクはパンフレットに掲載した15色から選べますが、最近、蛍光色(ピンクとオレンジ)や金も加わってバリエーションが増えています(写真10、11)」
中野さんに、リソグラフの印刷機の機構を説明してもらいました。本体の右側を開けると、孔版のマスターシートがセットできるようになっています(写真12)。本体の前面を開けると2色のドラムを引き出すことができます(写真13)。ドラムはカセット式なので色の交換がスムーズです。
手前の操作パネルには、インク濃度や2色刷りを行なった時の位置合わせの微調整ができるボタンがあります(写真14、15)。「この位置合わせが多色刷りの一番のポイント」だと中野さんは話します。位置はぴったり合わせる場合もあれば、あえて少しずらして版ずれを起こすようにして、レトロな雰囲気を演出することも可能です。
「くままでのおさらい(手製本特装版)」ではシリアルナンバーが活版印刷で刷られているのですが、その工程を中野さんに解説していただきました。「シリアルナンバーの印刷は活版印刷が得意とするところです。金属活字で数字を組んで、アダナの印刷機を使って仕上げました。印刷機は自動の活版印刷機 デルマックスもあります。こちらはA5サイズまでの印刷物に対応できます(写真16〜19)」
お店にはポストカードなども展示・販売されています。セルフプリント(要予約)も可能で、クイエイターにとっても楽しい空間です。荻窪駅から徒歩圏内ですので、是非訪れてみてください。看板犬のうどんもお出迎えしてくれます(写真20、21)。
「うさぎまでのおさらい」の印刷・製本プロセス
では、「うさぎまでのおさらい」の印刷・製本のプロセスを紹介しましょう。
今回製作する絵本は、A5サイズで本文が20ページです。A4の用紙を2つ折にすると1枚で4ページ分を印刷できます。5枚の用紙を重ねて中綴じにすると20ページの冊子になります。本文で使用した用紙はアラベール(ナチュラル)、表紙は厚手のファインペーパー、タントを使っています。さらに表紙のソデ部分を折る仕様(「がんだれ」と言います)になっています。表紙と本文は糸かがりで綴じます。
これらの作業をすべて手作業で行ったとのことで、大変な作業であることが想像できます。製本を監修されたのは空想製本屋の本間あずささん。本間さんは、現在は東京都武蔵野市に自宅兼アトリエを構え、少部数の受注製本、製本教室、ワークショップなどの活動を行なっている製本作家です。
製本の作業は中野活版印刷店で行われました。作業には二日間で15人の方が参加され、個展での販売用に100部の絵本を製作しました。本間さんは「販売する絵本なので、品質面では細心の注意を払いました」と語ります。杉田さんも「集まった方はみなさん器用な方ばかりで、きれいな製本に仕上げることができました」と話してくれました。
印刷で使用する用紙は、トンボを付けるためA4サイズよりやや大きめの用紙を準備しました。印刷した後、折加工を行い、さらに用紙を順番に重ねる「丁合」 の作業を行って、断裁します(写真22〜26)。断裁は、新宿区榎木町にあるエモリ紙工に持ち込んでお願いしたそうです。通常、断裁は、製本後にすることが多いのですが、今回は、綴じる前のため、ノドを綺麗に揃えての断裁に苦労されたようです。
表紙は、タントの用紙で刷り、金色で文字を入れる予定です。金色の文字は、活版印刷とリソグラフでテスト刷りを行い、最終的にリソグラフで進めることになったそうです(写真27〜29)。
表紙は、袖の部分を内側に折り込む「がんだれ」の仕様になっています(写真30〜31)。さらに、表紙と本文のサイズをわずかに変えて、1.5ミリの「チリ」を設けることになりました。このアイデアは本間さんが提案され、素晴らしい製本様式になったのですが、初めて製本作業を手がける方にとっては難易度の高い作業で、苦労されたそうです。
表紙と本文を合わせて、糸かがりで綴じていきます。5箇所に穴を開け、針と糸で綴じます(「五つ目綴じ」と言うそうです)。本間さんが工程を丁寧に解説した指示書を作成してくれたので、作業がスムースに進んだそうです。指示書には、綴じている途中で針から糸が抜けないようにする糸の留め方についての図解があります。糸を割るように、糸端に針を突き刺し、結び目をつくる独特な技法です(写真32〜35)。
「今回の製本作業は、とてもうまく進みました」と杉田さんは話します。「本間さんが親身になって指導をしてくれて、集まった方々も素晴らしかった」と感想を述べてくれました。出来上がった絵本は、書店Titleの個展会場で販売されました(写真36、37)。
今回紹介した絵本は、「くままでのおさらい」に登場したうさぎが、「うさぎまでのおさらい」で登場します。どちらも独立した物語になっていますので、どちらを先に読んでもよいでしょう。内容は読んでみてのお楽しみです。とても深い内容で、最初はドキリとするかもしれません。長い時間をかけて物語を咀嚼し、じっくり考えてみたいテーマであると思います。大人の方にこそ読んでほしい物語だと感じました。
最新のニュースでは「くままでのおさらい」をベースにした舞台「くままでのおさらい」も公演されたそうです。書き下ろし音楽の生演奏を背景に、芝居、ダンス、エンターテイメントなどが融合したアートフルな舞台とのことです。物語の世界がどんどん広がって、興味が尽きません。
また、井上奈奈さんの絵本原画展が催されます。同展では手作り製本の「うさぎまでのおさらい」が限定部数製作され販売される予定です。
[井上奈奈 絵本原画展]
期間:2017年7月19日(水)〜8月13日(日)
場所:こどもの本専門店 ブックハウスカフェ
住所:東京都千代田区神田神保町2-5 北沢ビル1F
最後に、今回のコラムで取材にご協力いただいた、杉田龍彦さん、中野好雄さん、井上奈奈さん、本間あずささん、製本作業に参加いただいたみなさんにお礼申し上げます。
長いテキストを読んでいただきありがとうございました。