平和紙業株式会社
良く分からない紙の世界 ④ 「菊判」
四六判に引き続き、菊判のお話です。
菊判はと言うと、明治に入り、西洋から多くの紙が日本に入ってくることになりました。
その中でも、当時アメリカの一般的な紙のサイズは、25×38インチでした。日本では、新聞用紙として使用するするつもりで輸入したものです。
当時はまだ尺貫法の時代ですから、インチを尺寸に直します。1インチ≒0.0838尺ですから、25×38インチは、2尺1寸×3尺1寸となります。この2尺1寸×3尺1寸を、メーター法に更に換算すると、2尺1寸×3尺1寸(636×939㎜)となります。
これが菊判のルーツです。
この紙は、もともと新聞用に使うために輸入したのですが、その後幅広く使われるようになっていきます。更にこのサイズは、今ではアメリカでは使われておらず、日本だけで使われ続けています。
そんな「菊判」ですが、出版の判型としても使われているようです。明治時代には、夏目漱石の「吾輩は猫である」の初版本など、菊判と言う判型の書籍として、出版されていたようで、新宿区にある、漱石山房記念館(夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館。2017年9月24日に開館。)には、その時のサイズを示すパネルが展示されています。
菊判の判型は、150×220㎜、もともとの大きさ636×939を16折りにして仕上げた寸法で、A5サイズ(148×210㎜)に近い寸法です。
では、どうして菊判と呼ばれるのか?
実は明確な答えはありませんが、この紙は、もともと新聞用に輸入したことから、「新しいことを聞く」の〝聞く″に〝菊″の文字を当てたとか、この紙の包装紙に商標として、ダリアの紋が描かれており、ダリアに馴染みのなかった当時の人が、菊の花と勘違いし、〝菊印″の紙と呼んだことが始まりとか、諸説あります。
いずれにせよ、アメリカから渡ってきた紙が、日本に定着し、現代でも普通に使われているのは、何ともロマンのある話ではありませんか。
そして、昭和の初期に、A列、B列といった規格がスタンダードになる中、これまでの四六判、菊判は、それぞれB列、A列の寸法より一回り大きく(B1:728×1,030㎜、A1:594×841㎜)扱いやすかったため、未だにこの寸法が定着しているのです。
もしかして、A列、B列の寸法が今の規格より大きかったら、今頃四六判も、菊判も姿を消していたかもしれません。
もし、家康が美濃判を指定寸法としなかったら、もし、アメリカではなく、他の国から新聞用紙を輸入していたら、今では全く違う紙の寸法が出来上がっていたかもしれません。
それは偶然だったのか、それとも必然だったのか、誰にも分かりませんが、この四六判、菊判は、今の紙の寸法の元となり、印刷機に影響を与え、製品の大きさにも影響を与える寸法となっています。
そして今、この瞬間にも、四六判とか、菊判とかが利用され、多くの印刷物を生み出し、私たちの目に触れることとなっています。
何だか良く分からないものが、分からないなりに私たちの社会を動かしているのが、紙なのかもしれません。