生田信一(ファーインク)
活版印刷の技術で、複製できない価値を生み出す
──ALBATRO DESIGN
前回のコラム「個展「植物標本と活版印刷」を訪ねる」でご紹介したALBATRO DESIGN 猪飼俊介さんのお仕事場を訪問しました。猪飼さんの仕事場は、所狭しと並べられた多くの印刷機器と道具類、そして美しい植物標本にも囲まれた不思議な空間でした。今回は、猪飼さんの楽しいお話と、いくつかの作品事例を通じて、猪飼さんの作品作りについてお話を伺いました。
猪飼さんが普段取り組んでおられるお仕事や作品からは、“アート”と“デザイン”が渾然一体になった魅力が潜んでいます。印刷の表現手法は、伝統的な活版印刷なのですが、その中に新しい表現手法を見つけようとするアグレッシブな姿勢が見受けられ、そのことが猪飼さんの作品の魅力になっているように思います。少しでもその魅力が伝えられればと思います。
では仕事場を覗いてみましょう。
仕事場にお邪魔して
まず、猪飼さんの経歴をお聞きしました。現在ではグラフィックデザインを中心に活躍されていますが、元々はファッションデザインの大学を卒業したそうです。日本でファッションの基礎や経営を学んだ後、イギリスに渡り、ロンドン芸術大学ではメンズウェア(紳士服)のコースを履修されたそうです。
イギリスでは、同時にグラフィックデザインにも興味を持たれ、ファッションとデザインの両方を学んでいたそうです。日本に戻られると、すぐに村上隆氏率いるKaiKai Kikiに参加、そこでデザインワークを担当することになったそうです。アートとデザインの最先端の現場でのお仕事は、イギリスで磨かれた猪飼さんの感性ともマッチしていたのではないかと推測します。
猪飼さんが学生時代から追い求めている作品のテーマは「人種や国籍を問わず、すべての人に喜んで受け入れられること」だと語ります。私なりの解釈ですが、誰が見てもわかりやすく、共感してもらえるものを作ることであり、人類が持つ普遍的な資質に根ざしたもの、ということでしょう。
本論に入る前に、一本のムービーをご覧いただければと思います(ムービー参照)。活版印刷が再現する作品の美しさや、私たちが愛しいと感じる思いは、こうした製造プロセスを経て生まれてくることが静かに伝わってくるムービーです。このムービーの素晴らしさは言葉にするのが難しいのですが、大げさな言い方をすれば、近代において築かれてきた印刷という営みが凝縮されているところにあるのだろうと思います。
活版印刷の仕組みはシンプルです。金属版に浮き上がる凸状のイメージ、そこに印刷インキが盛られ、紙に圧着してイメージが定着します。デジタルによる工程が進んだ現代では、どこか懐かしさを感じる工程の映像ですが、印刷物を作るスタイルの原点といえるでしょう。
猪飼さんのお仕事場は、活版印刷の機械がところ狭しと並んでいます(写真1〜3)。デザインワークの基本的なところではデジタルによる作業もありますが、最終の出力(アウトプット)の段階では、古いアナログ印刷技法を表現手法として取り入れている姿勢が伺えます。
アナログの表現手法では、製造の過程で人の手が必要になります。このことが猪飼さんの自由な発想やアイデアを実現できる場所になっていると言えるかもしれません。版作り、インキ、印圧、用紙など、アナログな生産工程だからこそ、人の手が介入する局面が無数にあります。
機材や道具類は、猪飼さんが勤務する東京藝術大学にも分散して置かれています。近々、東横線都立大学駅近くに新店舗PRINT+PLANTをオープンする予定で、そちらに設備をまとめ、さらに金属活字を収納する棚も設置する予定とのこと。
印刷実験の数々
面を重ねる
猪飼さんの作品を、表現手法の観点から解説しながら、いくつかをご紹介しましょう。
以下の作品は、幾何学図形をモチーフにしたシンプルな構成のカードです。版の位置を刷りごとに移動し、さらにメタリックインキの色を変えて重ね刷りして出来上がったイメージです。印刷用紙に表れる細かな文様は紙のテクスチャーで、印圧を抑え気味にして丁寧に刷り重ねています。作品は黒地、白地の用紙に刷ったものがあり、2つの作品を並べると、陰と陽の対比効果が鮮やかに表れます。メタリックインキ同士の重なりの効果は、通常の印刷物ではほとんど見ることがないので、新鮮です(写真4〜7)。
赤、青、黄色の原色のインキを重ねることで、違った効果が表れます(写真8、9)。絵具の基本色の混色と同じで、色が重なった部分に中間色が表れます。3つの原色がすべて重なった部分には黒が表れます。
こうした作品では、用紙やインキの選択、またそれらの組み合わせを変えて試行錯誤を繰り返しながら、最終の完成作品に落とし込んでいく、と猪飼さんは語ります。実験で得た結果は整理されてファイルに保管され、いつでも閲覧できるようになっています。整理された保管ファイルは膨大な数にのぼり、次の作品作りに生かされるそうです。
繊細な線の表現
面を繊細な線で表現して、重ね刷りを試した作品もあります。線の形状も、同心円にしたり波のように湾曲させたりして、変化を与えています。線同士が重なった部分には独特なパターンが表れ、色合いも変化します。受け止める人により、見え方もさまざまと思われ、印象深い作品です(写真10〜14)。
点(ドット)を重ねる
活版印刷では細かなドットの再現は難しいのですが、ドットで構成した面を刷り重ねることで、視覚的な色の混色が可能です。ドットは大きさを変え、3種類を作成、さらに刷り色を変えて重ね刷りを行ったのが以下の作品です(写真15〜20)。
ルーペで拡大すると異なる色の集まりであることは一目瞭然ですが、1色だと思っていた色が視覚的な混色で見えていたことに気づきます。3種類の版を用いて、それぞれドットの大きさや刷色を変えてさまざまな混色を表現しています。金属の凸版で細かなドットを再現する試みでもあり、興味深い作品になっています。
印刷インキ、プラスアルファ
印刷中のインキに、ガソリンなどの別の溶剤を混入したらどうなるでしょう? びっくりするような問いですが、結果は予想できないものになります。混入直後は、異なる成分の溶剤同士が互いに反発します。しかし、時間が経つと印刷機のローラーの回転により撹拌されて互いに混じり合い、なめらかなグラデーションになって表れます(写真21〜23)。
こうした印刷実験は、アナログ印刷機だからこそ可能な表現手法です。印刷トラブルを楽しむくらいのゆとりが必要ですが、思いもよらない仕上がりが期待できておもしろいです。
本来印刷物は、印刷条件を同じにセッティングしても刷り始めと終わりとを見比べると随分違って見えるものです。意図的に印刷条件を変えることで、思わぬ変化が生まれるわけで、印刷時のハプニングを逆利用した作品と言えるでしょう。
猪飼さんの解説を聞きながら作品を拝見すると楽しいです。印刷工程で一度しか得られない作品も見受けられ、展示会で直接お話を聞きながら刷り上がりを見比べて気に入った作品を選ぶのも楽しいでしょう。
幾何学模様
ここまで、グラフィックの要素を、面、線、点(ドット)に分解することで、どのような印刷表現が可能かを追求した作品を見てきました。これらの要素を組み合わせて、グラフィックが組み立てられていきます。猪飼さんの作品のモチーフの多くはシンプルな幾何学図形が基本で、これらを巧みに組み合わせてビジュアルが構成されています(写真24、25)。
面、線、点の要素は、印刷表現によりビジュアルの主役になることもできます。以下は、カードを並べて撮影したショット(写真26)。さまざまな印刷表現の可能性を感じていただけると思います。
植物標本と活版印刷カード
ここまで、グラフィックの要素を、面、線、点(ドット)に分解し、どのような印刷表現が可能かを追求した作品群を見てきました。以下に紹介するのは、「植物標本と活版印刷」展用に作られた実用的なカードです。このカードでは、グラフィック要素に文字を追加し、情報を伝えるカードとして機能します(写真27、28)。
情報を伝えるカードは、限られた情報の中からでも、見る人はさまざまなイメージを想起します。小さなカードに盛り込まれた情報から物語(ストーリー)を読み解く場合もあるでしょう。見る人のイメージが広がれば、きっとその人の記憶にとどまってくれるでしょう。
アナログ技術を使ったグラフィックデザイン
2018年8月28日、東京藝術大学において、社会人のための公開講座「アナログ技術を使ったグラフィックデザイン」が行われ、猪飼さんがこの講座を担当されました。講座の趣旨は、東京藝術大学の教育、研究を広く社会に開放し、社会人の芸術に関する教養を高め、芸術文化の向上に資することを目的とすることで、一般の方が多数参加されたそうです。この講座のために、アナログ技術を使った印刷見本を作成したとのことで、作例をいくつか見せていただきました。
講座では、アナログ印刷の種類として、活版印刷(凸版印刷)、シルクスクリーン(孔版印刷)、リトグラフ(平版印刷)、箔押し印刷(凸版印刷)、木版画(凸版印刷)、銅版画・エッチング(凹版印刷)などがあることを解説されました。一口にアナログ印刷といっても、このようにさまざまな技法があります。
たとえば、日本の浮世絵の木版画は、江戸期に広く庶民に親しまれた印刷物の代表例です。木版画は印刷表現の手法から分類すると凸版印刷の分野に入ります。また、孔版印刷のシルクスクリーンや、平版印刷のリトグラフ、凹版印刷のエッチングは、現代でも広く親しまれ、今日のアートシーンでもよく見かける印刷技法です。猪飼さんは、これらの作例を実際に受講参加者と一緒に刷って見本を作成し、作品作りのプロセスを解説されたそうです(写真29、30)。
講座のテーマは「アナログ技術を使ったグラフィックデザイン」ですが、猪飼さんは、これを「コンピュータのみで完結せず、デザインの要素としてアナログ技術を取り入れたグラフィックデザイン」を指すと定義します。現代においては、印刷工程の中にデジタル技術が深く入り込んでいます。パソコンやデジタルカメラはもはや必須の道具になっていますが、この工程の中に、アナログ技術をどのように取り入れるかが重要になってきていると説きます。
以下は、講座の資料から猪飼さんの言葉を引用し、講座で話された内容を紹介します。
まず、アナログ印刷の利点として、「デジタルデータや、デジタル印刷にはない質感」を与えられることにある、と説きます。さらに、「紙と印刷の相互関係により完成される個性(偶然性)を表現できる」こと。そして「印刷物自体にコピーや複製できない価値を与えられる」ことを利点として、挙げておられています。
猪飼さんは、アナログ印刷の今後を見据えて次のように述べます。「オフセット印刷からインクジェット印刷、さらにスマートフォンの登場でデジタルデザインが主流になったことで、アナログ印刷の質感に情報伝達以上の価値観が注目されています」
この指摘は、普段気がつきにくい視点で、なるほどと思います。私たちが印刷物を手にしたとき、そこには「情報伝達以上の価値観」を享受していることを忘れがちです。私なりの解釈ですが、アナログ印刷の価値は、「質感」という言葉に集約できるのかもしれません。デジタル画面のような平面的な視覚情報だけではなく、実際に手に触れて伝わる触感であったり、表面の凸凹であったり…。
アナログ工程を経て製造される印刷物だからこそ表現可能な価値観があること、そのことを印刷に関わるデザイナーやディレクターは、強く認識しなければならないのでしょう。
今回のコラム、いかがでしたでしょうか。次回もいろいろな印刷現場を取材し、お伝えできればと思っています。
では、次回をお楽しみに!
[ALBATRO DESIGN・プロフィール]
ALBATRO DESIGNはグラフィック、活版印刷、プロダクト、空間までデジタルとアナログの両視点から新しい価値を生み出す、東京を拠点に活動するデザインスタジオです。
ALBATRO DESIGN is a Tokyo-based design studio that projects new value through specific multilateral perspectives that are derived from a range of analog and digital skills that include letterpress printing to graphic product and space design.