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生田信一(ファーインク)
市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2)

市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」の見学記の2回目です。

時代は江戸時代末期から明治初期の頃、長崎オランダ通詞で、製鉄や洋式航海術にも携わった本木昌造や、その門人平野富二らは、明治初年に長崎に活版伝習所・製造所を興します。1871(明治4)年に東京に進出、神田を経て築地に本社を構え、以後「東京築地活版製造所」と称し、近代日本における活版印刷業の確立に重要な役割を果たします。

今回のコラムでは、東京築地活版製造所をはじめとして、主要な活字製造会社や印刷会社の動きを追いながら、協力会社から提供いただいた資料や文献などを紹介します。どのような道具を使って活字の種が作られたのか、またどんな職人さんがいたのでしょうか、興味は尽きません。順に見ていきましょう。

市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

東京築地活版製造所の歴史的資料

最初に、東京築地活版製造所の資料が紹介されていました。同社が作った書体は「築地体」と呼ばれ、この後紹介する秀英舎(後の大日本印刷)が開発した「秀英体」と並び、「明朝活字の二大潮流」として、日本の書体デザインに大きな影響を与えています。

本企画展「活字の種を作った人々」のテーマに沿って言えば、最初の重要人物として、東京築地活版製造所の種字彫刻師、竹口芳五郎(1939?〜1908)、竹口正太郎(1867?〜没年不明)、鈴木彦次郎(1877?〜1932)、安藤末松(1907〜1972)のお名前が挙がっていました(写真1、2)。

日本では、種字彫刻師のお名前は記録に残ることは少なく、今回の企画展でご苦労された点だったように思います。西洋(ヨーロッパ)の活版印刷では、活版印刷の活字を彫った人たちのお名前は記録され、残っていることが多いようです。

(写真1) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真1)「東京築地活版製造所」の解説パネル。

(写真2) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真2)「東京築地活版製造所」の種字彫刻師、竹口芳五郎(1839?〜1908)、竹口正太郎(1867?〜没年不明)、鈴木彦次郎(1877〜1932)、安藤末松(1907〜1972)の解説パネル。

(写真3)は、安藤末松の彫刻道具、彫刻刀、ルーペ、安藤末松の木彫り種字(印刷博物館所蔵)。(写真4、5)は、大正初期におけるタイポグラフィを立体的に紹介した『活字と機械』、東京築地活版製造(複製)。

(写真3) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真3)左より:安藤末松の彫刻道具、彫刻刀、ルーペ(印刷博物館所蔵)、安藤末松の木彫り種字(印刷博物館所蔵)、安藤末松の木彫刻の様子(朗文堂所蔵)

(写真4) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真4)

(写真5) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真5)
(写真4、5)『活字と機械』(複製)、東京築地活版製造所、1914(大正3)年 (印刷図書館所蔵)

(写真6)は『印刷雑誌』第1巻第6号、東京築地活版製造所、広告の誌面。小さく種字彫刻師の「竹口芳五郎」の名前が確認できます。

(写真6) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真6)『印刷雑誌』第1巻第6号、東京築地活版製造所、広告(複製) (印刷図書館所蔵)

(写真7)は種字を彫る安藤末松。小さな文字をルーペで覗きながら彫っていく様子がうかがえる。金属の素材に直接活字を彫ることを「直彫り」と言います(前回のコラム参照)。直彫りでは、文字を逆像で彫る必要があります。逆像で彫ったものは後に判で押して仕上がりを確認していたそうです。

(写真7) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真7)種字を彫る安藤末松の貴重な写真。

(写真1) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真1)「東京築地活版製造所」の解説パネル。

(写真2) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真2)「東京築地活版製造所」の種字彫刻師、竹口芳五郎(1839?〜1908)、竹口正太郎(1867?〜没年不明)、鈴木彦次郎(1877〜1932)、安藤末松(1907〜1972)の解説パネル。

(写真3) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真3)左より:安藤末松の彫刻道具、彫刻刀、ルーペ(印刷博物館所蔵)、安藤末松の木彫り種字(印刷博物館所蔵)、安藤末松の木彫刻の様子(朗文堂所蔵)

(写真4) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真4)
(写真4、5)『活字と機械』(複製)、東京築地活版製造所、1914(大正3)年 (印刷図書館所蔵)

(写真5) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真5)

(写真6) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真6)『印刷雑誌』第1巻第6号、東京築地活版製造所、広告(複製) (印刷図書館所蔵)

(写真7) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真7)種字を彫る安藤末松の貴重な写真。

秀英舎の歴史的資料

続いて、秀英舎の資料を見ていきましょう。以下、展示パネルの解説から引用します(写真8)。

「1876(明治9)年に銀座で創業。1935(昭和10)年に日清印刷と合併し、大日本印刷となりました。創業当時は鋳造設備を持たず、東京築地活版製造所から活字を購入していましたが、1881(明治14)年から自家鋳造を開始し翌年に活字鋳造部門である製文堂を設立、自社での書体開発をスタートします。1910年代には各活字サイズが揃い「秀英体」が完成します。秀英体はデジタルフォント化され、現在でもブックデザインに欠かせない書体として愛されています。」

(写真8) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真8)秀英舎の資料展示。

秀英舎の種字彫刻師として、沢畑次郎(生没年不詳)、その弟子の河村鋃太郎(1879年?〜1954年?)のお二人が挙がっていました(写真9)。

(写真9) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真9)秀英舎の種字彫刻師として、沢畑次郎、河村鋃太郎のお二人が携わっていたと考えられています。

秀英舎の資料として、72ポイントの種字が展示されていました(写真10)。当時作られた種字は、ほとんどが廃棄されてしまったため、あまり残っていないそうです。大きいサイズの種字は、デザインの細部まではっきり観察できます。近づいて眺めるととても美しいです。

(写真10) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真10)72ポイントの種字。どっしりとして、秀英初号明朝によく似ている。

(写真11)は、母型や父型作りに欠かせない道具や活版見本帖の資料。道具の中には使い方の記録が残っていないものもあるとのこと。

(写真11) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真11)大日本印刷市谷工場の母型作りの道具。右は『活版見本帖 Type Specimens』(複製)秀英舎鋳造部製文堂、1910(明治43)年。右下は『活版見本帖 未完』(複製)、活版製造所製文堂、1896(明治29)年(印刷図書館所蔵)

(写真8) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真8)秀英舎の資料展示。

(写真9) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真9)秀英舎の種字彫刻師として、沢畑次郎、河村鋃太郎のお二人が携わっていたと考えられています。

(写真10) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真10)72ポイントの種字。どっしりとして、秀英初号明朝によく似ている。

(写真11) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真11)大日本印刷市谷工場の母型作りの道具。右は『活版見本帖 Type Specimens』(複製)秀英舎鋳造部製文堂、1910(明治43)年。右下は『活版見本帖 未完』(複製)、活版製造所製文堂、1896(明治29)年(印刷図書館所蔵)

精興社の歴史的資料

続いて、精興社の資料を見ていきます。精興社は印刷会社ですが、活字の製造も手がけられていました。以下は、展示パネルの解説文の抜粋です(写真12)。

「博文館石版部精美堂(現在の共同印刷)にいた白井赫太郎(しらいかくたろう)が、1913年(大正2)年4月に東京・神田で活版印刷所として創業、1925(大正14年)に精興社と改称。書籍の印刷を多く手がけています。オリジナル本文用書体は「精興社書体」と呼ばれています。粘りのある独特の線は、築地体、秀英体のどちらとも違うデザインを切り開き、岩波書店をはじめ多くの書籍で使用され、作家からも愛された書体になりました。1995(平成7)年に創業以来続けてきた活版印刷を終了しましたが、一方で精興社書体をデジタル化し、現在でも精興社の印刷物で使用されています。」

(写真12) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真12)精興社の資料。精興社書体は、創業者白井赫太郎のオリジナル書体創造への熱い思いから生まれました。 その思いに共鳴した、活字彫刻家君塚樹石氏の卓越した技術協力により、長い歳月を費やし精興社明朝活字が完成しました。

(写真12)の奥のパネルでは、種字彫刻師として君塚樹石(1900~1970)を紹介しています。君塚樹石の展示パネルの解説は以下の通り。

「1900(明治33)年、東京生まれ。小学校卒業後、博文館の種字彫刻師、石渡栄太郎に弟子入り。独立後、精興社を興した白井赫太郎に依頼され、精興社独自の種字彫刻を担いました。精興社のベントン彫刻機導入に伴い原図制作も手がけました。」

(写真13)は君塚樹石の地金彫り種字。(写真14)は精興社書体の原図。原図制作には、種字彫刻師であった君塚樹石が大きく関わっています。

(写真13) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真13)君塚樹石の地金彫り種字。

(写真14) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真14)精興社書体 原図(複製)(精興社所蔵)
(以下、展示解説より)精興社では、1952(昭和27)年から、ベントン彫刻機を導入し、種字からではなく紙に書いた原図から機械で母型を彫刻していく方法に切り替えています。特筆すべきなのは、原図制作に種字彫刻師であった君塚樹石が大きく関わり、このタイミングでひらがな・カタカナのデザインをより一層洗練させたことです。彫刻に秀でていた君塚がデザイナーとしても活躍し、現在まで続く精興社書体が完成しました。

(写真15)は、精興社書体 で組まれた書籍。(写真16)は金属活字の組版。

(写真15) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真15)精興社書体 で組まれた書籍や金属活字の組版プレート。
(左上図の解説テキストより)『漱石全集』第一巻、夏目漱石、岩波書店、1965(昭和40)年。君塚樹石のベントン原図から作った活字が本文に使用されています。現在の精興社明朝はこのデザインを踏襲しています。
(左下の解説テキストより)『茂雄遺文抄』岩波茂雄、岩波書店、1952(昭和27)年。君塚樹石の種字から作った活字が本文に使用されています。

(写真16) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真16)(解説テキストより)東京大学史料編纂所編『大日本古記録 二水記 三』(岩波書店、1999(平成11)年)の活字組版で、戦後君塚樹石がデザインし、ベントン彫刻機で彫刻した精興社書体の活字を用いています。書体だけでなく、非常に複雑な組版体裁になっており、精興社の技術の高さもうかがえます。

精興社の書体(明朝体)は、村上春樹や吉本ばなななどの小説に使われており、知る人ぞ知るフォントです。精興社書体の特徴として、同社のサイトで以下のように述べられています。

「精興社書体の特徴はひらがなにあります。やや細めかつ小ぶりでシャープな線質と独特のカーブを持ち、美しさがあります。漢字との組み合わせでも、目に心地よいバランスを保ちます。」
出典:精興社サイト「精興社書体」

また筆者は、以前、東京都青梅市の精興社 本社・工場を見学させていただく機会がありました。そのときのレポートは以下を参照してください。
「精興社「活版印刷展示室」見学会に参加しました」

 

今回のコラムでは、「築地体」「秀英体」「精興社書体」といった「明朝体」の代表的なものを取り上げました。明朝体は、現在でも書籍や雑誌の本文組みで使われることが多い書体ですが、夏目漱石など明治期に作られたの書籍の復刻版を拝見すると、この時期に文字の形や組み方のルールが定まっていったことが伝わり、とても興味深いです。

さらに「明朝体」は、筆で書かれた草書体や行書体とは違った「印刷用の文字」であり、工場で大量生産が可能な文字ということもできます。縦に組んだり横に組んだり、大きくしたり小さくしたりと、変化に富んだ組み方ができるのも特徴です。明朝体で組んだ文字をじっくり眺めていると、なぜだか懐かしい気持ちになりました。

では、次回をお楽しみに!

(写真12) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真12)精興社の資料。精興社書体は、創業者白井赫太郎のオリジナル書体創造への熱い思いから生まれました。 その思いに共鳴した、活字彫刻家君塚樹石氏の卓越した技術協力により、長い歳月を費やし精興社明朝活字が完成しました。

(写真13) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真13)君塚樹石の地金彫り種字。

(写真14) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真14)精興社書体 原図(複製)(精興社所蔵)
(以下、展示解説より)精興社では、1952(昭和27)年から、ベントン彫刻機を導入し、種字からではなく紙に書いた原図から機械で母型を彫刻していく方法に切り替えています。特筆すべきなのは、原図制作に種字彫刻師であった君塚樹石が大きく関わり、このタイミングでひらがな・カタカナのデザインをより一層洗練させたことです。彫刻に秀でていた君塚がデザイナーとしても活躍し、現在まで続く精興社書体が完成しました。

(写真15) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真15)精興社書体 で組まれた書籍や金属活字の組版プレート。
(左上図の解説テキストより)『漱石全集』第一巻、夏目漱石、岩波書店、1965(昭和40)年。君塚樹石のベントン原図から作った活字が本文に使用されています。現在の精興社明朝はこのデザインを踏襲しています。
(左下の解説テキストより)『茂雄遺文抄』岩波茂雄、岩波書店、1952(昭和27)年。君塚樹石の種字から作った活字が本文に使用されています。

(写真16) | 市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」に行ってきました(2) - 生田信一(ファーインク) | 活版印刷研究所

(写真16)(解説テキストより)東京大学史料編纂所編『大日本古記録 二水記 三』(岩波書店、1999(平成11)年)の活字組版で、戦後君塚樹石がデザインし、ベントン彫刻機で彫刻した精興社書体の活字を用いています。書体だけでなく、非常に複雑な組版体裁になっており、精興社の技術の高さもうかがえます。

市谷の杜 本と活字館 企画展「活字の種を作った人々」

企画展「活字の種を作った人々」:https://ichigaya-letterpress.jp/gallery/000345.html
会期:2023年11月03日(金)~2024年06月02日(日)
住所:162-8001 東京都新宿区市谷加賀町1-1-1
電話:03-6386-0555
開館時間:10:00~18:00
休館:月曜・火曜(祝日の場合は開館)、年末年始
   入場無料
   ※平日:予約制、土日祝:予約不要