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京都大学図書館資料保存ワークショップ
[図書館に修復室をツクろう!]56
「灰」の効用

本の保存科学を勉強しなければいけないという意識だけはあり、文化財保存修復学会に入会し、学会誌『文化財保存修復学会誌』の購読会員になっています。最新号Vol.64、2021には「灰汁を利用した固着被災文書等の修復処置:灰汁の有効成分の検討と酸性紙・和紙へ及ぼす影響の調査」という事例報告がトップに掲載されています。著者は木川りか氏(九州国立博物館)を始め富川敦子氏(長崎歴史文化博物館)、久保憲司氏(長崎歴史文化博物館)、有吉正明氏(高知県立紙産業技術センター)、秋山純子氏(東京文化財研究所)、早川典子氏(東京文化財研究所)です。博物館関係者、高知県の紙(和紙)の研究所関係者、文化財研究所の関係者の方たちの共同研究報告です。

実は第二著者、富川さんの長崎歴史文化博物館の研究室に見学に伺ったことがあります。以前勤務していた大学の上司にあたる、日蘭(日本とオランダ)の交渉史を研究していらっしゃる教授に連れていっていただいたのです。もう10年も以前のことです。

私が図書館所蔵資料の保存や修理・修復を研究テーマにしているのをご存じで、親しくしていらっしゃる学芸員さん、富川さんの研究室を紹介してくださり、教授が出島のシンポジウムに出席なさる機会に長崎訪問に誘ってくださったのです。

その折も灰に水を加えて、灰が沈殿した上澄み液を古文書など紙の洗浄に使う。というお話を聞き、実際に紙の洗浄作業を見学、私にも洗浄経験をさせていただきました。

その当時、私には本の洗浄に差し迫った関心が無かったのですが、古い汚れた本を製本し直す時に、ルリュールの師匠のレシピに従って台所用の漂白剤を薄めて使用した経験がありました。最初は印刷インクが消えてしまわないかと心配でしたが、そんなこともなく、汚れだけがきれいになったのでホットしました。

富川さんの方法では、古来、あく抜きなどに使われて来た灰を使う、いわば「おばあさんの知恵袋」的なものなので、紙への影響は優しいのではないかということ、また、「汚れが良く落ちる」、従って固まってしまった本も開き易くなる。ということもお話いただきました。

その後、相次ぐ災害で被災した本、古文書などの紙資料の汚れ落としは資料の修復には欠かせないものになり、水洗いをする、その後の乾燥方法などのいろいろな経験や事例の文献も発表されるようになりました。

ワークショップでも、「水を被って固まってしまった本の洗浄、修復の実験をしてみたい。」という話題も出ていました。

ここで紹介する富川さんたちの報告のタイトルには「固着被災文書」の「修復処置」、「灰汁の有効成分」というキーワードが含まれています。いつもは敬遠する論文でしたが、私の理解可能範囲で紹介しようと思います。

富川さんたちはこの論文で昭和57年の長崎大水害で被災した古文書類の修復を試み、固着した文書類をpH10前後の灰汁に10分から15分浸ける方法で、固まってしまった文書を効果的に開き、洗浄する修理方法を見出して来ました。

この方法では水に浸すよりも短時間で固着部分が開く、劣化が激しい紙はとろけてしまうこともあるが、灰汁を用いた場合はとろけにくく、修理がしやすい、文書中で固まった虫糞やカビ、汚れの着色なども除去が容易である。ことを経験されています。

この事例報告では富川さんたちが使用している灰汁の成分分析を行い、主にどの成分が文書の洗浄に寄与しているかについて調査し、実際に酸性紙の印刷物や和紙の文書を試料として紙にどのような影響を及ぼすか紙の強度残存率などを測定しています。

使用された試料は以下の様に酸性紙の図書、雑誌、和紙です。

1. 単行本『裸の町』昭和11年発行 酸性紙
2. 雑誌『世界』昭和32年8月発行 酸性紙
3. 雑誌『映画評論』昭和16年3月発行 酸性紙
4. 横長帳、屏風下張り 江戸時代 和紙
5. 固着文書(墨書あり)時代は不明 和紙
6. 『音訓頭書 書経集集註 三』(印刷)時代は不明 和紙

これらの試料を解体し、灰汁に漬けます。灰汁は薪ストーブで木を燃やしたあとの木灰をふるいにかけ、木灰400gに対し、湯12リットルを注ぎ、2~3日おいて上澄みを濾したものが従来使われています。灰汁に漬けた後、水でリンスします。今回の実験ではさらにいろいろなバリエーションを用意して処理が行われています。

論文には灰汁の成分分析、灰汁の主要成分が炭酸カリウムであることから、炭酸カリウム溶液を用いた処理、また、灰汁に漬けた後の紙の残存成分分析なども報告されています。

以下にこれらの作業関係画像を引用します。『文化財保存修復学会誌』Vol.64、2021(COLOR PLATE)より

(写真1) | 「灰」の効用 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真1)『文化財保存修復学会誌』Vol.64、2021(COLOR PLATE)より

Photo.5では左の水に浸し処理した酸性紙と、右の灰汁に浸した酸性紙の比較ができます。

論文の「5.まとめと考察」から結論を記してみます。

1. 灰汁の主要成分である炭酸カリウムの水溶液でも灰汁と同様に固着の剥離や洗浄の効果が確認された。
2. 今回の調査対象試料 昭和11年、昭和32年、昭和16年発行の酸性紙の印刷物では、水、灰汁、炭酸カリウム水溶液に浸すことによって、強度残存率は向上し、水よりも灰汁、炭酸カリウム水溶液に浸した場合のほうが、強度残存率は高くなる。
3. 上記に対して江戸期の和紙の試料については、浸す前と、水、灰汁に浸した試料では強度残存率にほとんど差が見られなかった。

この事例報告に発表された灰汁のレシピや後の処理に従えば、私たちでも固着資料の洗浄実験が可能です。先に「おばあさんの知恵袋」的、などと失礼な書きようをしましたが、充分に追試可能な報告を発表して下さいました。

さらに、この事例報告を読み図書館に修復室をツクり、紙が中心を占める図書館の所蔵資料の保存・修理・修復を科学的に目指すために、考えさせられたことがあります。

一つはこの論文の「謝辞」に“灰汁の陰イオン分析、元素分析については、㈱島津テクノリサーチに、表面張力の測定については株式会社あすみ技研にお世話になりました。”とあります。図書館では自前で化学分析などを行う人材も施設も持つことは不可能です。科学的な調査、分析などは民間の専門企業に依頼できる予算と図書館員の資質が欲しいと思います。

二つ目は博物館、文化財研究所、大学等の研究者、研究機関から図書館への協力が得られないかということです。従来から「文化財保存」事業や論文発表というと仏像、考古資料、建造物などが主流で紙資料では古文書、屏風、掛け軸など装潢(そうこう)と呼ばれる分野がほとんどのようです。一点一点が重要文化財級のものではないけれど、将来に伝えて行きたい紙の図書館資料の科学的な保存・修理・修復の実現についても先進的な「文化財保存」の先達にもっと学びたいと思います。今回の『文化財保存修復学会誌』最新号からも、いろいろと示唆をいただきました。

ところで上記、日蘭交渉史の先生によれば、「灰」についての民俗学的歴史的研究は、これまでほとんど行われていないそうです。富川さんたちの論文の参考文献にも小泉武夫著『灰の文化誌』リブロポート、1984の一冊が挙げられています。私もこの本を読んでみようと図書館を探したのですが、所蔵が無く、大津市立図書館には同じ著者の『灰に謎あり』NTT出版、1988がありました。灰は古来、日常生活で身近に使われ、江戸時代には灰買(はいかい)」という商人がいて、竈や囲炉裏の余分な灰を米ぬかや綿実とともに買い歩いていたといいます。初めて知りました。

(写真2) | 「灰」の効用 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真2)『灰に謎あり』17ページより

図書館資料保存ワークショップ
M.T.

(写真1) | 「灰」の効用 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真1)『文化財保存修復学会誌』Vol.64、2021(COLOR PLATE)より

(写真2) | 「灰」の効用 - 京都大学図書館資料保存ワークショップ | 活版印刷研究所

(写真2)『灰に謎あり』17ページより