京都大学図書館資料保存ワークショップ
[図書館に修復室をツクろう!]94
一般市民が利用できる京都大学附属図書館があったかも知れないお話
最初から私事で恐縮ですが、昨年10月、編集のお手伝いをした本が刊行されました。
WEB MAGAZINE「本の修理と図書館の役割」(2023年7月15日号)でも少し紹介しましたが、題して『貸本屋と新聞縦覧所と図書館と―近世近代読書装置への史眼・廣庭基介セレクション』(廣庭基介著 菅修一/堤美智子編 金沢文圃閣刊 2023年10月)です。
この本に収録された「幻の市民公開計画―明治30年の京都帝大図書館」という論文をもとに、戦前東京上野にあった帝国図書館のような一般市民の利用も可能な図書館が京都にも出来たかも知れなかった顛末を記してみます。
京都大学の前身、京都帝国大学は1897年(明治32年)6月18日に創設されました。これ以前は1886年に設立された東京帝国大学が唯一の帝国(国立)大学でした。
東京帝大には設立と同じ年に附属図書館が設置されました。
二番目に設立された京都帝大の附属図書館は1899年(明治32年)12月11日に開館しています。大学設立から2年6ヵ月の遅れです。
初代京都帝大総長木下公次は1897年、京大創設の直後8月29日付け「大阪毎日新聞」に掲載された「京都帝国大学附属図書館の設立-木下総長の談片―」という記事のなかで、
1.図書館設立の暁には公開する積り。
2.もともと図書館というものは、必要になった時に急につくるものではなく、あらかじめ設立して置いて必要になったときにはいつでも役立てることができるようにしておくものである。
3.ヨーロッパでは図書館が完備しているかどうかでその地方のレベルが測れる。としている。
我が国には、図書館(国立)は東京に1館あるのみで、何か調査しようと思えば東京まで行かなければならない。それでは不便も甚だしい。故に京都に(一般公開の)図書館を開設して日本西部の必要に応えるべきである。
と語っています。
京都帝大創設から附属図書館開館まで2年6ヵ月の間、図書館の建物も無く、館長も決まっていない当初から図書館開館準備のために図書館職員として最初に京大に赴任し、開館準備のために働いたのは当時26歳の笹岡民次郎でした。
笹岡は最初の仕事として全国の蔵書家、愛書家、著述家などに対して図書寄贈を依頼する手紙の文案を作成します。この図書寄贈依頼書文案に幾度か加えられた上司による添削が<市民公開>への変化を物語っています。
以下「自明治30年7月至同年12月寄贈図書往復書類(1)」に綴じ込まれている文書よりの引用。
文案最初の公開に該当する部分は“広く内外古今の図書記録等を蒐集し本学学生は勿論普く公衆をして閲覧せしむる...”(原文のカタカナはひらがなに変えて記しています。以下同様)となっています。
上記への訂正文は“ご寄贈下され候はば永く之れを本学図書館に蔵し学生研究の用に供すべく候間…”
さらに明治30年9月1日付けの最終案では“ご寄贈下され候はば永く之を本学に蔵し学生研究の用に供すヘく”となり、文書末に追ってとして“追て本学図書館は其設備の完成を須ちて本学学生の外一般公衆の閲覧をも許し候様致し度希望にこれあり候”となり、さらに印刷所へ送られた原稿への校正段階で“学生研究の用に供すヘく”が”学術研究の用に“とあらためられています。
市民公開へのトーンダウンが明らかに感じ取れます。
京都帝国大学附属図書館は和漢書約35,000冊、洋書約6,000冊で開館をむかえます。開館当時の蔵書中には笹岡が寄贈依頼状を作成し、寄贈を受けたものが和漢書3,856冊、洋書1,415冊が含まれています。
さて、1899年(明治32年)11月6日、東大文科大学大学院生、文学士島文次郎を京都帝国大学法科大学助教授に任じ、京都帝国大学附属図書館長を任命する辞令が出され、同年12月11日京都帝国大学附属図書館は開館の運びとなりました。
建物については1898年(明治31年)に煉瓦造2階建ての第1書庫が竣工しており、翌年7月には閲覧室と事務室が完成しています。
一般市民公開はどうなったのでしょう?
開館直後、島館長は文部省への報告書のなかで、「将来の希望:経常費を増額する事、閲覧室を増築し公衆にも閲覧を許可する事」としています。公衆への閲覧は未だ開始されていなかったのです。
この後、公衆閲覧室の要求は消えたり、順位を下げて復活したりを繰り返しますが、明治38年から40年までの3年間は要求項目から消えてしまいます。そして、木下総長は明治40年退官してしまいます。
しかし、明治41年の年末に提出された10か年計画書には「公衆閲覧室増築費」の項目が立てられ、「いまや学生閲覧室は完成の域に達したので、開館当初の計画に従って、公衆閲覧室を10年計画で増築し、初志貫徹を図りたい」という文言が付け加えられます。
それにもかかわらず、これを最後に公衆閲覧室の計画自体が見られなくなってしまいます。
当時、社会一般では京都帝大附属図書館の公衆閲覧についての評判はどうだったのでしょう?
1899年(明治32年)開館間近の11月27日付け「大阪朝日新聞」には“京都大学の美挙二あり、”として“図書館の公開”、“レクチュアの公開”を挙げ、図書館の公開は、それほど遠くない将来に実現するだろ。関西に一つも図書館が設けられていないのは識者の嘆くところである。などと報道しています。
新聞報道までされた<京都大学図書館の公開>は結局実現していません。
なぜそのような事になってしまったのか、廣庭氏は第十一章「続京大図書館史こぼれ話 京大草創期、図書館を巡って起こった対立事件」でさまざまな文書資料を駆使して解き明かしています。この場で紹介することは、私の手に余ってしまいますので、思い切って私の独断でまとめて紹介します。
附属図書館の創設期4年間の図書費は3,611円、他方法科大学(法学部)には創設期図書費5,300円が配当されていました。予算不足な附属図書館は、当時有名な名古屋の貸本屋大惣が廃業して売りに出した本を購入するために2,000円を法科大学から借りています。
大惣本は、ほとんどが未だ開校していない1906年(明治39年)設立された文科大学(文学部)向けの図書であったため、この借金は法科大学の教官たちが島附属図書館長にたいして不満を抱くもとになったのではないか?と思われる文書が遺されています。
また、島館長は関西地区の図書館界のリーダーでもありました。
開館間もない明治33年(1900年)に関西文庫協会を設立、附属図書館で京都近辺の図書館関係者が集まって、図書館近代運動のための集会を開催したり、日本で最初の図書館関係雑誌である『東壁』を刊行しています。
このような附属図書館の活動に対して、法科大学の教授たちは面白く思っていなかったようです。
明治35年7月14日付け『法科用図書取扱手続』という文書では“凡そ京都帝国大学附属図書館は大学の附属図書館にして帝国図書館に非ず…”としています。
さらに京都大学大学文書館に所蔵されている法科大学5教授連名の「要求書」という文書には「附属図書館は大学と関係ない団体の集会を開いたり、展覧会に関係したりせず、図書の整理に専念すべきである。そのためには適任の館長を求めて大学図書館の実をあげるべきである。」と島館長の更迭まで要求しています。
これらの事情が火種となって「市民公開」は実現しなかったのでした。
廣庭氏は現代(1991年当時)ならば、京大全学の大多数の教職員から受け入れられ、図書館職員にも朗報であり、正論である「市民公開」も京大の草創期明治時代にあっては“エリート集団においても決して賛成する人々ばかりではなかったことが分かりました。むしろ、学術エリートであるがゆえに、自らのレーゾンデートルの源泉となる図書の扱いに厳しかったのかもしれません。”と「あとがき」に記しています。
京大附属図書館はその後1936年(昭和11年)閲覧室から出火し消失してしまいます。その後昭和15年に新館が起工するも戦争のため中断、昭和23年2月にやっと竣工します。現附属図書館は昭和58年竣工の第3代目の建物です。
市民への公開について、このような歴史をたどった現京大附属図書館は全学の研究科(大学院)、研究所などの図書館・図書室とともに京都大学図書館機構として組織化され、学外の一般の方の利用も手続きをとれば可能になっています。
ご利用の節はこのポータルサイトをご覧ください。
写真は『京都大学附属図書館六十年史』京都大学附属図書館編集兼発行 昭和36年刊
から転載しました。
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M.T.