京都大学図書館資料保存ワークショップ
[図書館に修復室をツクろう!]64
ウォーターマークとかくれんぼ
先月のWEB MAGAZINE 「図書館に修復室をツクろう!」63に小梅さんが書いているように私たちのワークショップでは番外編として西洋の伝統的な製本手法を学んでいます。その訳は、日本では明治以来輸入され、主として大学図書館に所蔵する洋古書の修理、修復の勉強のためです。
今まで、私には図書館で「貴重書」として特別扱いされる1800年以前に世に出された洋書を修理した経験はありません。が、極身近で1578年にスイスで出版された本が修理、修復されるのを見たことがありました。
そして、その時の修理前後の写真があり、本の綴じをいったん解かなければ見ることができなかったウォーターマークについて、少し調べたこともありましたので、紹介したいと思います。
掲載は修復前の破損表紙、ウォーターマーク、修復後の写真です。
その本というのは1578年スイスのジュネーブで著名な出版業者ヘンリク・ステファヌスことアンリ・エティエンヌによって刊行されたとされるステファヌス版『プラトン全集』です。この本は京都大学文学研究科所蔵。2003年当時文学研究科内山勝利教授の依頼で、私のルリュールの師匠、山之上禮子氏が修復を行いました。
内山教授の依頼は「破損しているこのプラトン全集を読める状態にしてほしい」というものでした。プラトン研究の論文に引用したり、論じたりする場合、このステファヌス版の何巻、何ページ、どの箇所かを記さなければならないと決められているからです。いわば、プラトン研究の辞典ともいえる、基本中の基本ツールなのです。
現在では、古書はその古書がたどって来た歴史、来歴を大切な情報とするため、なるべく「治さない」方が良いとされ、保存箱に入れられます。
が、内山教授の依頼により師匠山之上は読める状態の学術書とすべく、元の製本の雰囲気を残しつつ修復にとりかかりました。レッスンに行くと、小柄な師匠が大判の本に振り回されそうになって、作業していました。
その時、学生の時学んだ西洋古書に漉き込まれた「ウォーターマーク」なるもののことを思い出しました。師匠に告げると、やはりこの本にも存在したウォーターマークをおもしろがってトレースしてくれました。
さて、この本の物としてのデータは高さ39㎝の大型本、3巻です(実は京大所蔵のこの本は、修復以前は2巻に製本されていました)。洋古書の大きさは本文が刷られた(印刷本の場合)紙を折りたたんで、その折山を糸綴じして行きますので、紙を何回折り畳んだかによって本の大きさが変化します。
プラトン全集の場合、大型ですので、一回だけ折ったフォリオ(二折)と考えられます。確かにフォリオ版か?という疑問にウォーターマークが答えてくれます。
ウォーターマークとは?紙に漉き込まれた模様や文字のことです。すき網にその模様の形に網の線があるとそこには、紙の原料が薄く乗ることになり、透かし模様となります。紙製造者の商標登録の意味もあります。そして、透かしは通常漉枠の中央付近に入れられますので、ウォーターマークが本文のどこに現れるにかによって、元の紙が何回折られたかが分かるのです。
プラトン全集のウォーターマークはやはり、本の中央、綴じ山の中にありました。印刷された紙を真ん中から一回だけ二つ折りしたフォリオ版と見てよいようです。師匠が、綴じを解いて、綴じ治す前にトレースしてくれなかったら、ウォーターマークの全体像はもう二度と見られなかったでしょう。
私もこの発見と師匠の熱意に導かれて少し、調べてまとめてみることにしました。
1578年刊のステファヌス版『プラトン全集』は日本国内では8箇所の大学図書館が所蔵していることが分かりました。京大文学研究科、長崎純心大学、東北大学、放送大学、立教大学、明治大学、九州大学、北海道大学です。このうち、長崎純心大学と立教大学、明治大学のステファヌス版のウォーターマークを調査することができました。
大きなこの本を貴重書庫から出していただき、頁をそっと開いて、綴じてあるところを小さなライトをあてて、覗きます。ありました。
その詳細をここで、ご紹介することはしませんが、まとめとしては、やはり、漉き込まれているウォーターマークから、スイスで出版されているのは妥当であると結論しました。
このケースの様に、図書館員は本の内容に関わる職ではなく、物としての書物に関わる者とすれば、内山教授のようにプラトン研究の研究者の要望に沿って、書物の修理や修復を行い、両者の協働作業でそれぞれの仕事を行うのが理想であると思われます。
図書館と研究者の書物を巡っての素晴らしい協働作業に関わるシンポジウムが2つオンライン開催されましたので、紹介します。
1.東京大学経済学図書館・経済学部資料室、東京大学東アジア藝文書院との共催講座「知の継承」の第2回「海を渡った『アダム・スミスの蔵書』~西欧思想の伝播と日本」ではアーカイブが一般公開されています。
2.「啓蒙の言説圏と浮動する知の境界:貴重書・手稿・デジタル資料を総合した18世紀研究」(科研費基盤研究B)研究グループ主催、一橋大学社会科学古典資料センター共催ミニ・シンポジウム「西洋古典籍を巡る書誌と資料研究法の現在」
名古屋大学所蔵の著名な経済学古典資料の水田文庫、水田玉枝文庫の目録『水田文庫貴重書目録補遺;水田珠枝文庫貴重書所収』作成にあたって、名古屋大の図書館員(元図書館員も含む)と研究者が長年の協働研究の成果を報告されていました。
このシンポジウムの結論として、研究者の側からも図書館員からの協力は必要(昨今のオンライン目録作成など)というものでした。こちらは残念ながらシンポジウム記録は公開されていません。
なお、ステファヌス版『プラトン全集』の紹介と修復の報告は京都大学図書館機構の館報『静脩』に掲載されていますので、ご覧下さい。
以下から読んでいただけます。
*『静脩』40巻9号 2003年10月 所収の
☆「ステファヌス版」以前以後―『プラトン著作集』の伝承史からー 内山勝利
この本はギリシャ語原典とラテン語訳が1頁に2欄並べて印刷されているのですが、学者でもある出版者ステファヌスがラテン語訳者のセラヌスにしばしばクレームをつけるのですが、セラヌスはいうことを聞かなかったので、訴訟にまでなった。とか、内山先生も“ウンベルト・エーコあたりが好みそうなドラマがいっぱいである。”と書かれています。他にもミステリーのようなギリシャ古典哲学にかかわるお話満載です。
☆資料保存―プラトン全集Platonis Oper 1578 Stephanu tomI,II,III修理と修復の経験― 山野上礼子
*ウォーターマークの調査報告はネットでは読んでいただけませんが、下記に載せていただきました。
☆西洋古版本に見られるウォーターマーク ―1578年刊ステファヌス版プラトン全集の場合 堤美智子 『花園大学文学部研究紀要』第四十号 二〇〇八年
図書館資料保存ワークショップ M.T.