森カズオ
文字のある風景⑯
『新聞』~絶滅危惧種の文字媒体1~
淹れたてのホットコーヒーとバタートースト、そしてハムエッグ。これらが、かつての一般的なサラリーマン家庭の朝食の風景に欠かせない小道具だったと思う。そして、ワイシャツにネクタイを締めたパパは、朝刊をさっと拾い読みしながら、バタートーストをほおばる。何度か咀嚼した後、ぐっと砂糖とミルクがたっぷり入ったホットコーヒーで喉の奥へと流し込む。それを幾度か繰り返して、パパのモーニングタイムは終了し、徒歩5分の駅までの旅に出るのである。
これが、いわゆるサラリーマン家庭の典型的な朝の風景だった。まだ、「24時間戦えますか?」などとパパが尋ねられていた頃のことだ。
あの頃、新聞は生活に欠かせない存在だった。企業広告にしろ、求人広告にしろ、まずは新聞に掲載しよう、という暗黙の了解のようなものがあった。それほど、新聞という文字媒体には権威があったのだ。このように力はあったものの、あの頃でさえ、すでにテレビにメディアでの覇権を奪われていたのであるが。それでも、テレビ、雑誌、交通とともに新聞は4大媒体の一角を担っていた。パパたちは、毎朝、ポストに届けられる新聞に目を通すのが日課であり、その行為を怠る者は、知的レベルの低い人間とさえ思われていたのである。ある意味、脅迫されているのに近い感覚で、新聞は読まれていたのかもしれない。
朝日新聞広告賞というコンペ形式のオープンな広告賞があるが、当時の作品で、印象深いものがあった。「ニュースステーション」(報道ステーションの前身番組)の広告で、朝日新聞の1面の見出しだけが掲載されている(本文部分がすべて削除されている!)というビジュアルに“今朝、これだけしか読めなかったお父さんに。”というキャッチフレーズがついている作品だった。20数年前のことであるが、とても予言的な作品だったな、と思う。あの頃からすでに、新聞は“目を向けられない媒体”となっていたのだ。
あれから20数年、新聞の購読者は激減している。パパたちは、家で朝食を摂らず、通勤途中のカフェやコンビニのイートインで、パンとコーヒー200円なり!で胃を満たす。家でモーニングセットをつくるより、はるかにローコストで賄えるからだ。共働きのママの負担も軽減できるし、一石二鳥なのである。そして、情報収集といえば、スマホのニュースで…ということになる。新聞の朝刊を見ても、載っているのは昨日のことばかり。スマホなら今起こっていることがアットタイムで入手できる。しかも、無料だ。
即時性、携帯性、情報量で、新聞はネットメディアに白旗を上げざるを得なかった。決して無くなることはないだろうが、ガラパゴス的にマニアックな読者から支持を得るより他ないのではなかろうか。江戸時代の瓦版からはじまって、明治時代の活版印刷の黎明期に生まれた新聞は、大衆メディアに成長し、国家の公器とまで称されていた。しかし、その地位は、ネットという新参者に引きずり降ろされることとなった。
よく、新聞が読まれなくなったことで、社会の活字離れが進んでいると嘆く知識人がいる。私は、その見方はどうかな、と思う。ネットニュースでも基本はテキストだ。人々は、文字を敬遠しているのではない。文字がどのコンベアに乗せられてやってくるか、という問題だと考えている。まだまだ、人間は捨てたもんじゃない。画像情報だけで、すべてが伝わるわけではないことをみんな知っているはずだ。
たとえ新聞がガラパゴス島に生息する動物のような存在になろうとも、人々の文字への関心や興味は衰えたりはしないだろう。